「あなたにはとてもお世話になりましたし、感謝してますけど……。もう私の中では過去の人ですから……どうか東京に帰って下さい」

 ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、今後の事を2人で話し合っている所だ。
 1週間の休養も今日で終り、体調の方もすっかり良くなって、杏樹は明日からまたお店を再開しようと思ってる。

 この数日間、本当にお世話になって、それなのに追い返すような冷たい事を言って、酷い人だと思うし、身勝手だと言う事は十分分っていても、もう智弘と一緒に住む理由はなくなってしまった。
 確かに智弘は飛躍的に、まるで別人のように変化したと思う……。だけど智弘と一緒にいると、左手首の傷が疼くのだ。勿論もう治ってるから傷の痛みではない。あの時の苦しみと悲しみが思い出されて、過去に引きずり戻されそうになって、心が痛むのだ。

 ――なんだかこのままズルズルと彼と一緒にいても良くないと思った。

「もう昔の俺じゃないんだ!! だからもう一度俺にチャンスを与えて欲しい。俺は約束する。もう二度と君を傷つけたり裏切ったりしない!! 変わった俺を見て欲しい……。その上で判断して欲しい。頼む!!」

 縋り付くような必死の形相をして、テーブルに両手をついて、テーブルに頭を付けるように頭を下げる智弘。ニコリともせず無表情だった、あの大企業の社長、俺様的な傲慢な冷たい夫とは本当に別人だ。目の前にいるのは、奥さんに頭の上がらない、なんとも弱々しい夫という感じ……。

「だって……。あなたと居ると、悲しくて辛いあの時の日々を思い出して……。この左手首の傷が疼くんです。この左手首の刻印が消し去れないのと同じに、心の傷も消す事は出来ません」

 杏樹は左手首の傷跡を右手指でそっなぞりながら、苦しそうな表情をして智弘を見た。

「本当に悪かったと思ってる。俺は父が幼少期に亡くなって、母もすぐに俺を捨てて玖鳳家を出て行ってしまって、家庭とか、愛が何なのか知らないんだ。妻は子孫を残す為の存在……。子は玖鳳グループを嗣ぐ為の存在……。そう教育されて来た。だから、本当にその点については無知なんだ。 だが……。玖鳳家の屋敷を追われて、離婚届を書く事を強要された君の事を知って、慌てて君の住まわされてるマンションに行った時に、赤く染まった寝具とパジャマを見て、君の痛みに初めて気がついて、どれだけ酷い事をしてしまったかやっと分ったんだ……。心が抉られるような気持ちだった」

 智弘はあの時の光景を思い起こしながら、手放してしまった人の大切さに気付かなかった己の不甲斐なさと、彼女の苦しみと痛みを分かって上げる事の出来無かった自分の愚かさを責めた。出来る事ならば、もう一度チャンスをと必死に心から願った。それから自分の心の内を洗いざらい話そうと思った。

「実は冷たい玖鳳家の生活にはうんざりしてたし、君の事も、どうせ玖鳳家の財産目当てで結婚した欲深い女、あるいは、何の考えもない親の言いなりで動くお人形のようにと思ってた。 何もかもうんざりしてて、気がおかしくなる寸前だった。だから俺の一番信頼できる秘書の名義でマンションを買って、そこで1人で暮らしていた。俺が唯一心休める安住の場所だったんだ。時々屋敷に戻るのは、玖鳳家の子孫を残す為の目的だった。本当に君には酷い事をしたと思ってる。君をどれだけ傷つけてしまったか。初めて気がついた時心が痛くてしょうがなかった……。凍っていた心に初めて温かな血が通った気がしたし、初めて人としての心を取り戻す事が出来たのだと思った。そして、一生をかけて君に償おうと思った」

 彼も可愛そうな人なんだと杏樹は思った。だけど……。

「あなたも心に痛みを持った可愛そうな人だと言う事は分りました。だけど……そう簡単に元通りなんて出来ません。確かに別人のようにあなたは変わりました。だけど……」

 確かに彼は変わった。それに、病気になって献身的に看病してくれて、正直とても助かったし、ありがたく、固くゴツゴツと堅固だった心の岩盤がほんの少し剥がれ落ちて来てしまっている戸惑う気持ちもあった。どうすればいいのか少し分からなくなって来ているような、だけど、甘い顔を見せてはいけないような……。優柔不断で決められないような迷いがあった。

「もし……もし……ここに居たいのなら……。ルームメイトの様な形にしませんか? ”保護観察” と言う言葉があるでしょ? もし同居するのなら ”観察期間” という形で……。期限は ”無期限” で。もし私の気持ちが変化して、あなたとやり直したいと思った時にはまたやり直すという事で。でも……。その日が来るのは奇跡に近いかも知れませんよ! ”別居夫婦” のような ”仮面夫婦” のようなそんな形でもいいのなら、それから私の生活を乱したりしないと誓ってくれるのなら置いてあげてもいいですけど……。とても勝手な条件だと思いませんか? こんな形の生活でも良いのですか?」

 杏樹は、迷う気持ちが起きて、自分では決められなくなって、相手に委ねるように、都合の良い身勝手な事を口走った。

「俺は意見できる立場じゃないし、側に置いてくれるだけで嬉しいよ」

 この身勝手な提案に、智弘は迷わずすんなりと承諾した。
 智弘にして見れば藁にでもすがりたい心境だ。置いてもらえるだけで嬉しいし、小さなチャンスを手に入れたような気持ちだ。一筋の光が射し込んできたような気持ちだった。

「それから……。ルームメイトという形ですから、夫婦のように私に気安く触らないで下さい。あとは、食費光熱費で毎月10万円払って下さい。そうしたら食事は私が用意しますし、掃除洗濯もしますから。最後に……。私の機嫌を損ねるような事が起きたら出て行ってもらいますからね!!」

 アッサリと智弘が承諾してしまい、あまり甘い顔を見せては元も子も無いと、杏樹は気を引き締めた。自分がどれだけ痛い目にあったのか……。杏樹!! あの時の事を忘れては駄目よ!! 心の中で自分を叱咤激励した。

「手厳しいな……」

 智弘は焦ったような参ったと言うような顔をした。だが……。

「分った。その通りにします。じゃあ是からよろしくお願いします」

 ペコリと頭を下げる智弘。しつこいようだが、本当に別人だと、再確認するように思った。

「それから……今月の家賃は要りません。病院代払ってもらったし……」
「いいのかい?」
「はい……」

 浮き浮きしたような智弘の顔に、ちょっと悔しいような、甘かったかな? と戸惑う杏樹。でも、子犬の様になって自分の所に戻って来た彼が少しだけ可愛らしくも見えた。そんな風に思うのは何でかしら?

「じゃあ是からよろしくお願いします。俺……頑張るから……一生懸命努力して、奇跡を起す事にします」
「…………」

 奇跡を起こす? 妙に力が入ってる智弘の言葉に、なんとも言えない。智弘を側に置く事になって、一歩彼が勝利に近付いたような嫌な予感がした。

 もう二度とあんな思いはしたくないし、折角手に入れた自由を奪われたくない……。そう思っているはずだったのに……。
 この穏やかな生活を奪われないようにしなければ。そして彼が失態を犯した時、それを口実にいつか追い出そう……。杏樹は気持ちを引き締め、固く決心した。

「じゃあ私は明日から仕事がありますので、朝早いのでもう寝ます。あなたはこのまま屋根裏部屋を使って構いませんから……」
「分った...。もし手伝いが必要だったら、何でも言ってくれ。店番でも何でもするから。まあ明日から仕事探しにも行こうと思ってるから、出かける事も多いかもしれないが……」

 ――仕事探し? ここに本気で居座る気なんだ……。

「手伝ってもらう事があったら、じゃあ言いますから」
「ああ……。分った……」
「じゃあおやすみなさい」
「おやすみ」

 杏樹は寝室のベッドに横たわり、溜息を一つついた。

(ああ……。とうとうここに住む事を許可してしまったわ……)

 その反面少し安心感もあった。とても奇妙な気持ちなのだが、明るい日中はいいけれどこんな森の中の別荘地。ほんの僅か、セカンドライフで定住している人も居るが、殆どはセカンドハウスばかり……。シーズン中は人も多いが、シーズンオフとなると、立派な屋敷も主が居ない状況で、ゴースト化した家々が森の中に点在するようになってしまう……。
 車で少し行けば、この地で生活している地元人の住居もあり、沢山のお客様達がお菓子を買いに来てくれるが、ご近所さんと呼べる人はすぐ側にはいない。
 夜は不気味だ。浮浪者のような者が玄関のベルを鳴らす事もあった。玄関にチェーンを付けていたが、その浮浪者の様な男はチェーンを引きちぎって、家に入って来そうな雰囲気だった。
 とても恐ろしかった。思わず夫がいる様な風に演じて大声で夫の名前を叫んだ。その途端、慌てて立ち去っていったが……。それからは、安全の為に夜は門にも鍵をかける事にした。

 あの時夢中で夫の名前を叫んだんだっけ……。今日から脅えなくてもいいんだ……。

 なんて身勝手なのかしら。

 東京に帰って! なんて言っておきながら、一緒に住む事にちょっと安堵感を抱いてるなんて……。

 愚かな私……。

 ――これからどんな奇妙な生活が始まるのかしら? あれこれ思いながら、杏樹は眠りについた。

(第12話に続く)