小島から携帯電話で呼び出されて十五分後、美里は二人の待つ事件現場に姿を現した。
 赤い二百五十CCを入り口近くに待たせて美里は玄関をくぐる。
 古びた板を張った廊下が美里の足下から軋(きし)んだ音を立てる。血生臭い異様な雰囲気が美里を包み込む。悪寒が足下から上がってくる。
 殺害現場には小島と恵が彼女の到着を待っていた。
「すみません、急にお呼び立てして…」
 美里の姿を見た小島が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、構いませんよ。私でお役に立てるのならば…」
 美里もまた、二人に頭を下げる。
「ここは一体どういうところなんです?」
 けつえきの飛び散った跡を残す部屋の周囲を見回して美里は言った。
「ここはある事件の現場なんです」
 恵が美里の疑問に答える。二人はここで起こったことを出来るだけ美里には伏せておこうと予め話し合っていた。情報を与えてしまうと彼女に先入観を与えてしまうと思ったからだった。それともう一つ、情報がない中で彼女が何処までこの事件に辿り着けるかを見極めようという思いもあった。
 美里は部屋の四方をじっと見つめていた。ここで人が殺された。それはこの状況を見ればわかる。では、どんな人物がどういう形で殺されたのか、まずそれを知る必要がある。美里は部屋の中に残された当時の空気を探した。
 少しずつ過去がここに戻ってくる。そのヴイジョンが浮かび上がってくる。血生臭い部屋、一人の初老の女性、そして沢山の牙、牙、牙。
「ここで六十代くらいの女性が殺されましたね?」
 美里が言った。
「わかるのですか?」
 小島が応じる。
「ええ、はっきりとではありませんが、そんなヴィジョンが見えます」
 美里は部屋の中を歩き出し、飛び散った血の跡に触れていった。ヴィジョンが次第にはっきりとしてくる。
 怯え、後ずさりする恵理子の姿。それを追い詰めていく存在。幾つもの触手を持ち、複数の頭が見える。鋭い爪を持った四肢。二股に分かれた尾。その先にも牙が見える。
 これはこの世のものではない、『もの』だ。美里ははっきりと感じた。
『もの』は恵理子に対して強い憎悪を発している。それは複数のものであり、一つのものでもある。この『もの』は幾つもの意識の集合体だ。そう美里は悟った。
 やがて『もの』は恵理子の体に無数の牙を突き立てる。真っ赤な血液が飛び散る。恵理子が悲鳴を上げる。それは何度も、そして長い時間発し続けられる。その中で『もの』は恵理子の体を貪り食う。歓喜の中で…。
 そう、恵理子は生きながらに『もの』に食われたのだ。その光景は今まで美里が見たどのような光景よりも残忍なものだった。とても目を向けていられない。急に吐き気が上ってくる。
 美里はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか?」
 その様子を見ていた恵が美里の元に駆け寄る。
「ええ、大丈夫です…」
 支えられた恵の手に触れて美里は応える。
「何かわかりましたか?」
 掠れた声で小島が言う。
 美里は恵に支えられながら頼りなく立ち上がる。
「はい、酷い有様ですね。この被疑者は生きながら『もの』に食われています」
「『もの』?」
「私達のそれに対する呼び名です。悪霊や妖怪といったものです」
「化け物、の『もの』ですか?」
「そう理解してもらって良いです」
「それで、その『もの』はどういった奴なんです?」
 小島の言葉を受けて美里は今見たヴィジョンに出ていた『もの』の姿を持っていた手帳のページに描いて見せた。
「これは…」
 美里の描いた絵を見て小島と恵は息を呑んだ。
「これは複数の意志の塊です。複数であり、一つでもある」
「どういうことです?」
 恵が声に出す。
「複数の憎悪を感じます。それもかなり強い。それらの憎悪が核となる意識にまとわりついていてこの形を作り出しています」
「キメラ…」
 恵の言葉が漏れる。
「そうです。キメラです」
 断言するように美里は言った。
「しかし、この一件以来、同様に事件は起こっていません。キメラという奴は滅んだのではないですか?」
「いいえ、まだその気配を感じます。ただ眠っているだけなのでしょう」
「それでは、また同じような事件が起こると?」
「はい、恐らく力を溜め込んでいるはずですから、これ以上のことを起こすかもしれません」
「それで、我々はどう対処したらいいのですか?」
 小島の言葉を聞いて美里は絶望的な表情を見せる。
「残念ながら人の持つ武器ではこのキメラに対抗できません」
「そんな…」
 恵が声を上げる。
 人の持つ武器では対抗できない、それは小島にとっても絶望的なものだった。しかし、このまま放置しておけば第二、第三の事件が起こってしまう。何か打つ手はないものなのか、小島は何度も自分に疑問を投げつけた。そうして上着のポケットに手を入れたとき、冷たい感触に彼の手は触れた。それを握って取り出してみると一つの銃弾がそこにあった。
 それはラミアの事件の時、横尾が彼に手渡したものだった。あのときも同じようなことを横尾に言われた。そして対抗できるものはこれだけだと言われ、この銃弾を手渡されたのだ。
 この銃弾に縋(すが)るしかないのかもしれない、小島はそう思い美里に銃弾を見せた。
「鏡さん、これでキメラに対抗できますか?」
 美里は小島の手にある銃弾を見て微かに希望を見いだした。
「ええ、これならばキメラに致命傷を与えることが出来なくても、十分に対抗できるはずです」
 その言葉に小島も希望の光を見たような気がした。