夕方の薬を飲んだ後、ホールに座っていた。

 例のおとなしそうな中年男性、隣室のおじいちゃん、車いすの中年女性もいたけれど、気にせずそのままそこに座っていた。


 泣かないための対策、一人にならないこと。

誰かと話すのもよいかもしれない。

 そう思って、もう一人の車いすの、上品なおばあちゃまに話しかけてみた。

というか、自力で一生懸命車いすを動かしてホールからどこかへ行こうとしていたので、
「押しましょうか?」
と聞いてみた。

 彼女はにっこりして、なにかジェスチャーをしたけれど、車いすは自力で動かしたいらしかった。

 ……自力で動かすのはいいけど、動かし過ぎて勝手に違う人の部屋に入りかけてるのだが。


 でも、自分ではもう何もできない、と気力を失うよりは、よほど良いに違いない。
いわゆる「ストレングス視点」「エンパワメント」でいうなら、
 ほとんど動けないのに
 自力で車いすを動かして
 部屋に自分で戻ろうとしている


このことを、まず「素晴らしい」とほめるのが本人の生きるプライドを応援できる方法だろうと思った。

 けれどナースさんは、
「ちょっと、I沢さんなにしてんの、そこお部屋違うよ!」
と彼女を止め、
「ご飯までここでじっとしといて」
と、ホールに車いすを固定してしまった。



 ……やっぱりだめだな、この病院。
認知症の人を否定したり叱ったら悪化する、って、教科書にのってる基本だと思うんだけど。


 長年生きてきて。
きっと、いろんなことを経験して。
私みたいに、早々に人生を切り上げようとした人間とはちがって、頑張って生きて、生きて、そして脳が疲れて認知症になって。


 ここにいる、おばあちゃま。
私は邪険にはあつかえないし、看護師があんなに失礼な態度なら、わたしはせめて敬意をもって接しようと思った。


 話しかけると、声が出ていない口で、でも一生懸命に話してくれた。
息子が二人いる話し。胸を患っていて、少し苦しいこと。

 話していると、横にいたおじいちゃん……そろそろ名前を覚えたのでSさんとする、が、なにやら会話に入ってきた。

 なんだか混乱していらして、
「おばあちゃん、娘さんが心配なんやろ?」
とI沢おばあちゃまに言う。おばあちゃまは困って、手を振って、「娘はいない」と返事していた。


 そして私を見て、おばあちゃまは、そのSおじいちゃんのことを説明した。
「男は無口がかっこいい。この人はいつも黙ってしっかりしていていい男だ」

それを何か聞きちがえて、Sおじいちゃんがなぜか怒りだした。
意味不明な会話に巻き込まれてしまった……と、思いつつも、暇つぶしの一環として会話に付き合う。

 Sおじいちゃんは、突然涙をこぼし、
「僕なんかには誰も見舞いに来ない。若い者に、あっち行けこっちいけと言われてトイレや食事やに連れまわされて、自分の年も西暦も忘れてしまった」
と、こぶしを椅子にたたきつけた。