「じゅ…しろ……」
腕の中にいて、誰よりも近くにいるのに、彼女は遠くにいるような気がした。
視界が溺れて花がよく見えない。
どんな表情をしているのか分からない。
「もうだめね…」
不意にそんな彼女の声が脳に響いた。
ハッとして彼女を見ると、滴が彼女の頬に落ちて弧を描く。
「最期はその手で」
苦しそうに彼女の口がそう動いた。
そんなの、嫌だ。
ぼくが死ぬことに関しては、覚悟はできている。
だけど、花ちゃんが死ぬのは、ぼく、そんな覚悟なんかしてない。
「じゅ…しろ」
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
このままじゃ花ちゃんが死んでしまう。
一生会えなくなってしまう。
それは嫌だ。
「はな…」
どうしたらいい?
ぼくはどうしたらいい?
彼女の手がぼくの涙をぬぐった。
「花、」
その手は、冷たいはずなのに、なぜかいつも通り暖かかった。
鮮明になっていく世界で、花が泣いている。
花ちゃんが泣いている。
それは、嫌だ。
「はな、だいすき」
どうすればまた、笑顔になってくれるだろうと考えた結果だった。
涙と鼻水と、ぐちゃぐちゃになったぼくに言われて、彼女はどう思っているだろう。
死なないで、なんて言えなかった。
はなが死んじゃうなんて、ぼくは認めない。
「…ろ、ごめ…」
苦しそうな彼女の表情が少し和らいだ。
でも、彼女の涙は止まらなかった。
だんだんと、焦点が合わなくなっていく彼女の目を見て悟る。
ぼくは、ぼくの涙をぬぐってくれている手をつかんだ。
「嫌だ、はな…」
そんなの嫌だ。
そんなこと言わないで、花。
「ぼくと、夫婦になるんでしょ…っ」
ぼくの言葉に、少し頷く彼女が目を閉じようとする。
「花ぁッ!!!」
彼女の涙が頬を伝った。
「いやだ!目を閉じないで!花!ぼくを置いていかないで!」
それでも彼女はぼくの声なんて聞こえていないようで。
「もう!花がその気ならぼくも死ぬ!!!」
そう叫んで、震える手で蓮を自分の腹に突き刺そうとすると、彼女の制止する声が届いた。
「…ぁかっ」
バカと言われたのに、全然悪い気はしなかった。
目を閉じようとしているくせに、ぼくが何をしようとしているのかは分かったらしい。
「ぃきて……ぉねが…ぃ…」
でも、泣きながら、苦しそうに懇願する彼女を見て、ぼくは何とも言えない気持ちになった。
「はな…」
自分は死ぬかもしれないのに、彼女はぼくにそうすることは許してくれなかった。
「…っ!!!」
「じゅ、しろ………っ…」
彼女はぼくに何か伝えようとしていたのに、ぼくはそれが分からなかった。
「なに!!?なんて言ってるの!!?」
必死になって彼女の言葉を拾おうとして、いくら耳を近づけても彼女の声は振動となって俺の鼓膜を震わせることはなかった。
やめて。
これは悪い夢だ。
やめて。
「だいすき」
突然、耳に鮮明に声が届いた。
自分で涙をぬぐって、彼女を見ると、花は目を閉じて明後日の方向を向いていた。
そんな、嘘。
彼女の全身の力が抜けていく。
急に、彼女の体が重くなった。
うそだ。
彼女の手がぼくの手からすり抜けて、畳の上に吸い込まれていった。
嘘だ。
そんなの、嘘だ。


