5月30日(木) その8


 搾乳器は、すぐに使用を中止した。


 さすがに、これを使い続けたら、後悔すると思った。



 助産師さんには「シリコンにかぶれて、胸が痒くなった」と説明した。


「それじゃあ仕方ないね。大変だけど、手で搾乳して、赤ちゃんにあげてね」



 回避できてホッとする。




 でも、やってみて分かった。





 手での搾乳は、予想以上に時間のかかる作業。


 何度も胸を摘んだり、つねったり、押したりして、やっと一滴。

 それを哺乳瓶に少しずつ溜めていく。


 ドモホルンリンクルのCMみたいだ。




 1時間かけて、20mlしか溜まらない。

 助産師さんから「一回につき、30~40ml」と言われている。

 
 最低でも、あと、10ml。




 たった10mlが、果てしなく遠い。


 


 右側を絞ってみる。


 右の胸は、生理前の2倍の大きさになっている。

 パンパンに張って、触るとしこりみたいに硬い。



 痛みに堪えながら絞ってみる。



 出ない。


 全然、出ない。





「どうですか?」

 看護学生さんが様子を見に来てくれた。



 苦戦していると伝える。


「看護学校で習ったんですけど、おっぱいのマッサージがあるんです」

 教えてもらう。


 まず、左胸の下部に右手の平を当て、更にその下に左手の平を重ねて、上部にゆっくり持ち上げる。

 同様にして左胸の左側に両手を当て、右側へゆっくりと押す。

 今度は右側から左側へ。

 上から下へ。

 斜め下から斜め上へと行う。


 左胸が終わったら、右胸も同様にして行う。



「どうですかね」


 絞ってみる。


 おお!

「さっきより、出てます!」

 何度も乳首を押さなければ出なかった母乳が、たった2回押しただけで出るようになった。


 これならイケる!




 と、喜んだのも束の間、また出なくなってしまう。


「温めてみましょうか」

 学生さんが、タオルを温めて胸に当ててくれる。


 温めながら、マッサージ。


 絞る。


 また、出が良くなった!

 そして、出なくなる。



「……難しいですね。また、タオル温めてきますね」


 学生さんは、実習終了時間まで搾乳を手伝ってくれ、なんとか30ml弱を2本作ることができた。



 夕方。授乳の時間。

 色々やりすぎて、胸全体が赤くなっている。


 それでも、両胸5分ずつは、直接蓮に吸わせなければならない。


 眠っている蓮を起こして、胸を近づける。


 反射で口を開ける。

 蓮の吸う力は、あまり強くない。


 でも、痛い!!


 我慢、我慢、我慢、我慢



 ……無理っ!



 吸わせたことにして、搾乳した母乳を与え、ミルクを飲ませた。







 


 




 疲れた。





 色々やりすぎて、両胸が、ヒリヒリズキズキする。

 完全ミルクにしたい。


 飲み終わった哺乳瓶を洗面所で洗う。

 手も足もむくんでジガジガ痛い。



 入院日数が増えるにつれて、どんどん体調不良になっていく。



 助けてくれる人もいない。





 無音の部屋で、孤独。
 

 寂しい。


 辛い。




 夫のお母さんから、メールが来ていた。


 内容は……


『疲れていませんか? 時間ごとや夜中の授乳、大変だと思います。だんだんと自分なりのリズムもつかめてくると思います。焦らずに、気長にやってください。何かあったら、気軽に相談してください。みんなついてますよ』


 

 みんなついてますよ



 の、一言が、めちゃめちゃ染みた。




 直接電話をかける。


『もしもし~、M(私の名前)さん? よく頑張ったね。おめでとう。Y(夫)から赤ちゃんの写真送ってもらったけど、すごく可愛いじゃない!!』


『入院、どう? 大変じゃない? 疲れていない? 大丈夫??』

「はい。あの、メールが嬉しくて、つい電話してしまいました」




『本当? 迷惑かなとも思ったんだけど』

「いえ、全然です! ちょっと嫌なことがあったので、本当に嬉しくて」

『何?? どうしたの? 大丈夫??』



 心配されたら、涙が出た。





『Mさん? 大丈夫?』

『Mさん? どうした??』

「別に、全然大したことじゃないんですけど」

 しゃくりあげながら、それだけ説明。

 もう、どうにもならなかった。


『大丈夫よ~』とお母さん。

『出産直後は身体も治ってないのに、育児も授乳もやらなきゃならないし、とても辛いのよ~。でも、Mさんはすご~く頑張ってる。大丈夫だから』

「……はい」

『母乳は、出てる?』

「はい。母乳の出はいいみたいです」

『すごいじゃない!! 偉い!』

「あ、でも、赤ちゃんが小さすぎて、うまく吸ってくれなくて」

『大丈夫よ~。最初はそんなもん。それにね、ミルクだって子供は育つから大丈夫。Y(夫)の弟の時は、乳幼児嘔吐下痢症でミルクだったけど、ちゃんと大きくなったから』

「はい」


『赤ちゃんなんて、どんな女の人でも育てられるんだから。Mさんなら、絶対に大丈夫だから。Mさんが頑張ってるのはすご~く分かってるから、頑張れとは言いたくないの。とにかく、気楽にね。赤ちゃん泣いたって、眠い時は寝ちゃいなさい。少しくらい雑に扱っても大丈夫よ。とにかく、Mさんの身体が大事なんだから』


 褒められたり心配されたりすると、涙が止まらなくなる。


 鼻水も止まらない。ティッシュで抑えながら、もごもご返事をした。

「ばい。ありがどうございまず。……なんか、元気出ました」


『ホント? 良かった。また、私で良かったら連絡して』

「はい」


 電話を切って、鼻をかむ。





 しゃっくりまで出始める。


 


 妊娠してから、私は泣いてばかりいる。

 子供の頃、お母さんが泣いている姿なんて、見たことが無かった。


 こんなんで、ちゃんと蓮を育てられるのだろうか。