「廣太郎の弟が、莉子の彼氏だったらどうする?」

「俺、一人っ子だけど」

またしても唐突な私の問いに、廣太郎は冷静に答えを返して来る。

「それは知ってるけど。とにかく、想像してみて」

想像してみたって仕様がないか、って思うのに、廣太郎ならどう答えるだろうかってことが気になる。


「由澄季が妹の彼氏に懸想してるところをか?」


あっさりとそう言われて、私は頭垂れた。

「まあ…、そう、だね」

見え見えの質問だったらしい。


「もし俺に弟がいて、その彼女が莉子だったら」

どうやら、私の質問を無視するつもりはないらしい。そう気がついて、じっと廣太郎の顔を見つめる。いつもの図書館からの帰り道は、完全に夜の闇に沈んでいるけれど、その表情を見逃さないように。


「躊躇なく奪う」


頭を殴られたかな?っていうくらいの衝撃だった。

「おい、由澄季、しっかりしろ」

あ、今度こそ、本当に頭を殴られたはずだ。痛いから。鈍く弱いけれど、確かな痛みを覚えて、我に返った。

「う、うん。いや、聞き間違いかなーって思って」

そう言いながら、とっくりと眺めてみるのに、廣太郎は涼しい顔のままだ。

「聞き間違いじゃねえよ。莉子が誰の彼女だろうが、奪う」

ああ、レベルが上がった。「弟」どころか「誰の」彼女だろうが、だって!

「なんで?弟はどうでもいいの?莉子の気持ちは?」

おかしだろう、廣太郎!そうツッコみながら、廣太郎を叩き返すけれど。


「じゃあなに、俺の気持ちはどうでもいいのか?」


どきり。

「誰の気持ちだってどうでもよくないと、俺は思う」

それはつまり、弟も、莉子も、廣太郎も、みんな大事にするべきだってことなんだろうけれど。

「そんなの、理論的に成り立たない。莉子に二股かけてもらうの?」

それは、必ずしもみんなが満足するとは限らないと思うけど。

「それもありうるけど。その前に、莉子に選ばせるんだよ。どっちが好きか。一番公平だろ」

「二股がありうる!?どっちかを選ばせる!?」

びっくりして廣太郎の顔を覗きこむけれど、そこにはふざけている色はない。
「公平ってなんだ!?」

うるせー、って言いながら、当の本人はけたけたと笑い出している。混乱しているのは私だけだ。


「別にそれが正解だって言ってるわけじゃない」

お前の好きな数式みたいに綺麗に解けないぞ、と廣太郎は続ける。

「価値観が、人それぞれなんだ」

価値観。私がその言葉を噛みしめるように考えていた時。

「由澄季は、自分が我慢するのが一番いいと思ってるんだよな」

そこも指摘されて、もう黙って頷くことしかできなかった。うつむいて歩くと見える地面にも、廣太郎と友達になった頃のような落ち葉は、もうない。

地面はただ凍えていて、靴を履いていてもその冷たさが伝わってくるようだ。

「それもそうだけど」

私は、菜津希と瑞樹のことを考える。二人のことを、思い浮かべてみる。

「私は勉強以外で菜津希に敵うことが一つもない。菜津希と付き合ってる方が彼のためにいいと思ってる」

私が、胸の中に巣食っているものを取り出してみると、そこにははっきりと「劣等感」と書かれていた。これまでにいくらでもそれに気がついてよかったはずだけど、今初めて自覚してびっくりした。

それは多分、祖母が、両親が、瑞樹が、私と菜津希とで接し方をはっきり区別しなかったからなのだろう。

「それこそ、お前だけの価値観にすぎない」

「かといって、廣太郎の価値観に倣うことは不可能」

「じゃあ、今のまま泣き寝入りするんだな」

「そう、だね。わかってはいるんだけど、諦めるべきだってことは」


「確かに、我慢ついでに、いっそのこと諦めた方が楽かもな」

そう言われてもな。

「それができるなら、とっくにしてる」

私がそう言うと、思った以上に声に感情がこもってしまった。情けない声だ。そうか。今まで自分ひとりで考えてただけだから、こんな声を出したこともなかったけど、今は廣太郎が話を聞いてくれるから、こうして感情を吐き出すことができるんだ。

お風呂でため息吐くしかなかったのに。こうして言葉にして、誰かが聞いてくれるだけで、少し胸の痛みが楽になるような気がする。

そう思うと、彼の存在がありがたくなった。

「廣太郎、ありがとう」

思わずそう言った。

「なんだ?奪う気になったのか?」

「なるか!今更そんな気ない!」

「そっか。じゃあ、諦める手段でも教えようか?」

「え?そんなのあるの?」

「他の男を好きになればいい。簡単だろ?」

そう言って、廣太郎は威張ってみせる。簡単に聞こえるけど、私のように狭い世界で生きている人間にとっては、その「他の男」とやらを見つけるのが大変だ。

「たとえば、誰を?」

「誰でも。…ああ、合コンでもやるか。いい男を紹介してやろう」

まさかだけど。


そのまさかは、実現してしまい、どういうわけか、私はこうしてこの居酒屋にいる。

「莉子。私、どうしたらいい?」

隣にいる莉子は、今日もきらきらとお姫様のオーラを出して微笑む。

「にっこりしてて」

「に、にっこり?」

それができたら苦労しないよ、と呟くと、莉子はまさに「にっこり」と微笑んで、「じゃあ、人の話を相槌打ちながら聞いてたらどうかな」と提案してくれるから、そうすることにした。

ああ、それにしても、視界に境目がなく、さらにはその全体が鮮明に見えるって、感動だ。

私は、事前に莉子から出された課題、「コンタクトレンズを調達する」というものをクリアして今日に臨んだ。

だから、目に見える世界がおもしろくて、きょろきょろと店内を見回してしまっていたらしい。

「由澄季ちゃん、なんか探してんの?」

聞き慣れない声がすぐそばで聞こえて、体がこわばってしまった。

「う、ううん」

いつものように、無愛想で短い返事しかできない。それなのに、声をかけて来た男の子は、にこっと笑ったから、私はびっくりして莉子の方を振り返ってしまった。

私の視線に気がついた莉子は、「だいじょうぶ」とその愛らしい唇を動かしたけど。

何が大丈夫なんだろう?それにしても何だろう、この人は。私に話しかけるなんて、珍しい人だ。今まで会ったことのない人種だなぁ。

「ね、どこの高校だっけ?」
「あ」
「2年?3年?」
「え」
「あは。緊張してるんだ?合コン初めてだったよね?廣太郎が言ってた」

そこでようやく、機会が訪れたので、莉子のアドバイス通りに小さくうなずいて、かろうじて笑みらしきものを浮かべてみた。

「うわ、超かわいい」

思わず莉子やその他の女の子の位置を確かめた。どう考えても、彼の視線の先に彼女たちはいない気がするけど、何がかわいいんだろう。もう何かかわいいものが通り過ぎた後だったのかもしれない。

そんなふうにあれこれ考えながら首をかしげていると、向こうで莉子と廣太郎が爆笑している。
何が面白いんだ!戸惑っている私の顔か!あとでとっちめてやろう、とひそかに決意する。

結局、「あ」とか「うん」とかくらいしか言えないままで、宴会は進んでいく。

廣太郎と莉子が、それぞれの友達を3人ずつ集めてきて開かれた合コンだから、皆なんとなく感じがいい人のような気がする。

未成年だからと言ってアルコールを口にしない私を責める人もいない。上手く話せない私を馬鹿にする人もいない。

友達の友達って、仲良くなりやすいのかな。

学校にいる時のように、浮いた存在として扱われることのない空間を、不思議に思う。それは、ぬるいお風呂に浸かっているみたいに、心地が良くて緊張感が薄い。

ときどき、莉子や廣太郎を交えて話す時には、自然に笑えるようになった頃。


「そろそろお開きにしよう。ね、もう9時だから」

そう莉子に言われた瞬間、急激に眠くなった。9時!?もうそんな時間!?

5時から始まったはずだから、4時間も無駄話に付き合った計算になる。信じられない話だ!

にわかに慌てて、鞄をがしっと掴んだ時。
「俺、由澄季ちゃんを送って行きたい!」

初めに話しかけてくれた男の子が、そう言って元気よく手を上げてくれる。

「なんで?」

私がきょとんとすると、また廣太郎と莉子が爆笑している。廣太郎が、仕方ないなという顔で、説明してくれる。

「前も言ったけど、暗くなったら、女は一人で歩かないの。男が送るのが常識」

「あー、知らなかった!私も女だった?」

「知ってたはずだろ!なんだその疑問形は」

廣太郎は、由澄季はやっぱりおもしれー、とか言いながらげらげら笑ってる。

知ってたけど、忘れてたよ、私は。自分が女だってこと。その方が気が楽だし。それに、一人で歩いたからって何もないと思うけど。

にこにこしながら、待ってくれる男の子を、無視してはいけない気はする。

「気遣ってもらってスミマセン」

ようやくのことで、それだけを言うと、目の前の男の子が顔を真っ赤に染めた。…何か、恥ずかしくなるようなことがあったかな?
慣れない人とふたりきりで、何も話すことがないんじゃないかと思っていたけれど、そこはさすがに廣太郎の友達と言うべきか、話題の振り方が上手かった。

「由澄季ちゃんは、大学に進学する?」

それなら答えられると思い、うんと頷くと、ずいぶん気が楽になった。それは多分、彼の方も同じだっただろう。

希望する学科や専攻コースについて、語り合っていると、あっという間に私の家が見えてきた。

「すぐそこだから、ここで大丈夫」

いつも廣太郎と別れる十字路で、彼にそう告げた。

「うん」

そう答えたきり、少し俯いた彼の顔が、沈んで見える。

「具合、悪い?」

そう尋ねて顔を覗き込むと、そのまま抱き寄せられて、息が止まった。


「これでお別れなんて、残念だなと思って。また、会える?」

耳のすぐ後ろで、男の子らしい低い声が響いて、びくりとしてしまった。

「ご、めんね。私には、よく、わからない……」

おばあちゃんが、いまだに時々はこうして抱きしめてくれるから、この状況自体は、珍しいものじゃないのだけれど。

今日会ったばかりの人に、こんなことをされる理由がわからない。

お別れが残念だと言う理由もわからない。

また会える?と聞かれる理由もわからない。


喉元まで、「そのうち偶然会うこともあるかもしれない。そうじゃなくても、廣太郎たちも一緒に、また会えることもあるかもしれない」という台詞が上がってきていたけれど、どうもそういう答えを期待されてるわけじゃないって言う気がする。

何て答えれば正解かわからない。


「そっか。ごめん。びっくりさせた」

そう言って腕を解いた彼は、ため息をついて、ちょっとだけ笑った。

「じゃあね」

軽く手を上げて、今度こそ、彼は私に背を向けた。だからようやく、私も自分の家に向かうことができる。

…なんだろう、この面倒な感じ。

人の気持ちを推測したり、どう答えるのが最善か考えたり。

学校のクラスメイトみたいに心底どうでもいい奴相手だったら、無視しておけばいいのだけれど。今日の廣太郎の友達みたいにいい奴には、あれこれ中途半端に気を遣うんだな。

そう思うと、ちゃんと友達づきあいができている、菜津希や瑞樹、廣太郎に莉子、みんなみんなが、ずいぶん立派な人間に見えてきて、私はため息をついた。

もう、合コンには、行かないでおこう。私にはうまく気を遣うこともできないのだから。

そう思いながら、とぼとぼ歩いていたら。


「由澄季!?」


これは聞き慣れた、嫌というほど聞いた、声だ。

声のした方を見る。わあ、よく見える。

いつもなら眼鏡がないと全く見えないはずの、瑞樹の家の瑞樹の部屋の窓。そこから、瑞樹が顔をのぞかせているのが、はっきりとわかった。

「うん。ただいま」

そう言う間にも、どったんどったんと派手な音が私のところまで響いてきて、最後には「ガン!」とひどい音とともに、玄関のドアが開いた。

「どうした!?なんだ!?何事だよ!?」

瑞樹が唖然とした顔で、私を見ている。

「うるっさい。近所迷惑だよ、瑞樹」

額をぺっちんと叩いてやる。

「お、おま、お前、そんな恰好で駅から歩いて来たんじゃないだろうな!?」

「しー!」

なぜか興奮状態の瑞樹を諌めてはみるものの、全く効果がない。呆れて、仕方なく元通りに、瑞樹を彼の家の玄関に押し込んで、私も一緒にドアの中に入った。

「うるさいよ、瑞樹。そんなに変?廣太郎の彼女が服を貸してくれたんだけど」

心配になって、自分の着ている服を見下ろしてみる。

綺麗なピンク色のカットソーの上に、白いモヘアでゆるく編んだゆったりシルエットのセーターを重ねて、ひらひらとフリルが何段も付いたデニム地のボトムはミニスカートに見えるかもしれないけどショートパンツだ。

黒のダウンジャケット羽織ってるから、寒くもないし。
おかしいな。足癖悪いってことも打ち明けて、パンツが見えないようにズボンにしてもらったし、素足を晒す面積が減るように、ロングブーツまで貸してもらったのに。

ああ、踵が高くて、しょっちゅう躓いたこと、バレてるのかな?

「す、スカートが短い!!」

「スカートじゃない」って呟くのに、瑞樹はまるで生徒指導担当のの教師のように、ひたすら私の恰好の粗を探すべく、目を皿のようにして見ている。

「化粧が濃い!!」

「うん、まあ、それは濃いかも」

化粧なんて、菜津希の実験台になるとき以外にしたことなかった。

「ますから」とやらも、今日初めてつけたし。ごしごしと目をこすってみるけれど、ぱりぱりした感じが全くとれない。やっぱり、莉子がくれた、メイク落としの試供品を使って、お風呂でしっかり顔を洗うしかないみたいだ。

「髪は、パーマをかけたの?」

そう言う瑞樹の声が低くて、そして、私の髪を掬うその手が一瞬触れた耳が熱くて、私は必死で自分の心の蓋に鎖を巻きつける。

「かけてないよ。莉子が巻いてくれただけ」
「コンタクトなんか、絶対駄目だからな!」
「なんでよ」
「目に悪いだろ」
「菜津希もしてるけど」
「菜津希は言うこと聞かないからいいの」
「私だって好きにしたい」

「由澄季はそんなにコンタクトの方が、好きなのか?俺がこんなに心配してるのに?」

悔しいけど、そんな顔で、そんな言い方をされたら、私にはもう何も言い返せない。

切なそうに眉を寄せる瑞樹は、自分の言動がどれだけ私の気持ちを変えるかわかっていないだろう。

だいたい、今日だって、自分の希望でコンタクトレンズを装着しているわけじゃない。莉子に言われて、チャレンジしてみたまでのことだ。

「わかった。もうしない。眼鏡にする」

そう答えると、瑞樹はようやくはあぁ、と長いため息を吐いた。興奮状態は、少し落ち着いたらしい。


莉子が一生懸命、私を着飾ってくれたのに、そんなに変だったのかな。そう思うと、少し気分が落ち込んだ。



「廣太郎とかいう奴は、ちゃんと送ってくれたのか?まさかひとりで帰って来たんじゃないだろうな?」

どきり。

瑞樹が、初めて家の前まで送ってくれた廣太郎のことを、「感じ悪い」と表現して以来、私は家の前まで廣太郎と帰ったことはなかった。

今日だって、廣太郎の友達と帰ってきたのは、家より少し手前の角だ。瑞樹の部屋の窓から見える位置ではない。


「ああ、まあ、ひとりじゃない。大丈夫」

そう言葉に出して、その時のことを思い出すと、彼に抱き寄せられた感触が蘇ってきて、上手く答えられなかった。

その記憶は、いつの間にか、夏の朝に感じた、瑞樹の腕の力強さにまで繋がってしまったから。

男の子、なんだよね、瑞樹も。

っていうか、私の思考回路って、問題ありだ。なんであそこから瑞樹のことに繋がって行くわけ?


「何赤くなってんの」

一層瑞樹の声が低くなって、私の胸はどきりと疼く。「誰と帰って来た?廣太郎ってヤツ?」

屈んで、私の顔を覗きこんでくる瑞樹の目を、直視することができない。近すぎる!ドキドキし過ぎる!

「だいたい、こんな遅くまでどこに行ってた?何してたんだよ?」

いつもだけど、聞きたいことが多すぎる、瑞樹って。質問攻めだな。そう思うと、やっと少し笑えた。

「聞いてもつまらないと思うから、言わない」

勉強が一番の趣味、っていう変人らしい私が、どういうわけか合コンに参加したなんて、面白い話でもないだろう。

「み」

瑞樹が、両手で私の頬を包んで、自分の方を向かせたから、驚いた。喉から言葉が出なくなった。「瑞樹、どうしたの?」って言いたかったのに。

異常な早さで打つ鼓動に半ばあきれながらも、至近距離なだけじゃなくて、コンタクトレンズのせいでやたらと鮮明に見える瑞樹の顔から眼を逸らすことは叶わない。


「つまらなくてもいい。心配だから、ちゃんと話して」


なんとか頷いて見せると、瑞樹は手を離した。
ほっとすると同時に、その温かく優しい肌触りがすぐに恋しくなった。

「うん」

順を追って、廣太郎と一緒に莉子の家まで行ってケーキを食べる約束だったこと、なのにケーキを食べ終わったらこんな恰好をさせられて、予告なく合コンに連行されたことを説明した。


「合コン!?」

ぽかんと口を開けたままの瑞樹に、私は笑いがこみあげてくる。

「おっかしいよね。私が合コンなんて。でも大丈夫、意地悪されることはなかった」

「そりゃそうだろ」って言いながら、瑞樹が呆れてる。ああ、合コンっていうものは、喧嘩するんじゃなくて仲良くするのが目的だったね。

「で、誰と帰ってきたんだよ。廣太郎って奴は莉子って彼女と帰ったんだろ?」


ふうん。鋭いな、瑞樹。

瑞樹も同じような場面だったら、菜津希と一緒に帰るってことなのかな。そう想像したら、胸がちくんと痛んだ。

「廣太郎の友達と帰って来たよ」

「は?男?もしかして由澄季、初対面の男とふたりきりになって帰って来たのか?」

「ん?『もしかして』の意味がわからないんだけど」

「何もされてない?手とか握られなかった?」

「あ、ああ、手は、大丈夫」

「手は!?」

「…私、眠いから帰るね」

上手く答えることができなくなって、私はドアを開けると、さっさと向かいにある自分の家に帰る。

「もー、合コン禁止!!」

「しー!」

なぜか大声でわめいた瑞樹に目を剥きながら、注意する。

「もう遅いから来なくていいよ、一人で眠れる」

サンダルを履いたままで、慌てて追いかけて来る瑞樹にそう言う。

「なんだよ、その男に甘えたから満足なわけ?」

と見当違いなことを言い募る。

「どの男?甘える?私が?」

「だって、由澄季は俺に甘えないと眠れないだろ?頭を撫でてやるまで寝付けないじゃん」

「ちょっと、誤解されるような言い方やめて。私は一人でも眠れます。だから、いいってば。帰って」

そうはっきりと言うのに、瑞樹が私に続いて家の中まで入ってくるから呆れる。

「いや、明日の予習ができてないんだよ、俺。ノート見せて。英語と古文」

「またなの!?まだやってないの!?古文も!?もう9時半過ぎてるのに!!」

どうやら、そっちが本当の目的だったらしい。

結局、この夜も、瑞樹は私の部屋で予習をし、私の頭を撫でてくれたのだった。


「もう今日みたいな格好しない?」

私がうとうとし始めたころ、瑞樹が低くそう呟いた。

「うん。そんなに似合わなかったんだね」

莉子ががんばってお洒落させてくれたんだけどな。申し訳なかったな。

「いや…、似合ってた」

「え?」

思わずぱちんと瞼を押し上げた。



「かわいいよ」
完全に聞き間違いだと思った。

両親と祖母は、血が繋がっているからやたらと「かわいい」を連発するものの、それ以外の人にそう言われた例はない。私の記憶にある限り、一度もない。

不細工とかブスとかは、よく言われるんだけど。

それだけじゃなくて、瑞樹が人の外見に対して「かわいい」だとか「かわいくない」だとかいう形容詞を使ったのが、とても珍しい。私の記憶にある限り、初めてだと思う。

「…口、開いてるけど」

…熱でもあるんだろうか、瑞樹は。そう思っていたら、そんな恥ずかしいご指摘をいただいてしまったので、慌てて口を閉じた。


「どんな格好でもかわいいけど、ゆうが急に変わるのが、なんか嫌だ」


ああ、胸がなんか痛い。いや、なんかじゃなくて、すっごく痛い。

ドキドキだか、ズキズキだか、きゅんきゅんだか、よくわからない音で疼いている。

「わ、かった」

瑞樹が日常的には、私を「ゆう」と呼ばなくなって、どれくらい経つだろう。

幼い頃、渇舌がよくなかった瑞樹は、なかなか「ゆずき」の音が発音しづらかったようで、「ゆじゅき」と言ってしまうことが恥ずかしかったみたい。そのうち「ゆう」なら、発音できると気がついてから、何年もの間そうやって私を呼んでいた。

うまく言えるようになってからは、「ゆずき」と私を呼ぶくせに、ときどきこうして甘い声で「ゆう」と言うのだ。

わざとだろうか。それとも偶然だろうか。

幼馴染という関係がなければ、こうして眠る前に頭を撫でてもらうこともなかっただろう。夕飯を一緒に食べたり、勉強を教えたりすることもなかっただろう。

初めから、ただの、妹の彼氏として瑞樹と知り合ったんだったら。二人の関係を理解した上で、私が彼を好きになったのだとしたら。

親しく言葉を交わすことすら、ほとんど無かったはずなのに。


何の因果か、瑞樹は妹の彼氏になる前から、私の幼馴染でもあった。

だからこその親密な空気は、邪念を持っている私には、甘く感じられて。ひそかに勘違いしそうになる。

これまでどおりのラインが、見極められなくなってきている。

ここまでは、幼馴染として近付いていいラインだろうか。それとも、私が瑞樹のことを好きなせいで、そのラインを越えてしまってるんじゃないだろうか。
いつもそのボーダーラインを意識しながら、瑞樹はもちろんだけれど、誰よりも菜津希には、私の気持ちを知られたくないと思っている。瑞樹は鈍感だけれど、菜津希は人の感情や表情に敏感だから。

そういうわけで、こんなふうに、幼馴染のレベルがどこまでなのか、わからない状態にいるのが不安だ。

菜津希は、こんなふうに私と瑞樹が二人でいても、気にする様子もない。リビングや自室から動かないのだから。それは、長年の習慣だと理解してるからだろうか。私を信用してるからだろうか。

ときどきそんなふうにあれこれ思いを巡らせるけれど、瑞樹に部屋に来るなとも言えず、今に至っている。

いつの間にか落ちた夢の中で、女の子にしか見えない、小さい頃の瑞樹が笑っていた。