「真面目にやったの?」


思わず、そう言ってしまった。

「ひでー…。真面目にやったよ」

その答えに、私は大きなため息をついて、頭を抱え込むしかない。瑞樹は、他人事のようにくすくすと楽しそうに笑うだけだから、呆れる。この能天気。

「じゃあなんで、テストがこんな惨憺たる結果なの」

「ん?さん…なんだって?」
「さんたんたる、結果!」
「どういう意味?」
「ひどいってことだ!!」

私がそんな言葉を叩きつけているのに、「違いないね」なんて言ってけたけた笑ってるから、瑞樹ってホントに馬鹿だと思う。

「はい、ありがと」

そう言って、にっこり笑いながら、前に貸した参考書や問題集を返してくる瑞樹。

「…一応、ノート見せて」

本当に、ちゃんと問題解いたんだろうか。それで、あんな点しか取れないんだろうか。その疑問が消えないのだ。

「うん。ほら、俺、頑張ったよ」

自信満々にそう言いながら、差し出されたノートを開くと、私は視界がくらくらと歪んできたのを感じた。

とにかく間違っている。全てが!

「…字は、いっぱい書いてあるね」

「だろ?」

満足げにそう言う瑞樹に、「褒めてないんだけどな」と呟いたけれど、奴は聞いてない。


「なあ、由澄季はどのへんに住むの?」


目をキラキラさせながら、私の顔を、ひょいと瑞樹が覗きこむから、思わずのけぞった。

うわ、びっくりした!顔が近い!


「何区にする?最寄駅はどこ?」

「…は?」

頭の中がピンク色に染まりかかっていたけれど、問われたことを反芻して硬直した。

「東京で、どこに住むか決めた?」

「そんなこと考える前に、もうちょっと勉強して、地元の大学に行きなよ」

「もうお前にその望みはないって、担任が断言してたわー」

「……」

思い描いていたキャンパスライフが、私にさよならを告げて消えて行ったのを、感じた瞬間だった。

誰も知っている人のいない環境で、ひとりで生物学に邁進する4年間(できれば6年間)を、過ごすはずだったのに…。

「な、どこに住む?」

「まだ合格してもいないのに、決めてるはずないでしょう!」

「由澄季はどこでも受かるよ。決めてないなら、俺とルームシェアしよっか」

「…しない!!」

考えただけで、ぞっとした。

ファミリー向けだか何だかの住まいを借りて、瑞樹と暮らすところを。

いや、嫌いじゃない、瑞樹のことは。ここだけの話だけど、私は相変わらず瑞樹のことを嫌いになれないでいる。

でも、その気持ちを押し隠したまま、彼とルームメイトになるならば。

週末や、大型連休になると、菜津希が泊まりに来たりするわけだ。そして、仲睦まじい二人の様子を、穏やかな顔で見守るお姉さんを演じることになるのだ。


そんなの、そんなのって…、まさに今と同じじゃないか!


「あれ?由澄季、何か怒ってる?」

怒ってるよ!この皮肉な運命に!

早い段階で、進学先が、こいつに知られたのがそもそもの間違いだったかもしれない。ふと、そう思い至って、最後まで東京のどこに住むかは言わないでおこうと固く決意した。


「ただいまー」


菜津希の声が聞こえて、私は小さく息を吐いた。

「遅かったね」

時計を見ると、もう夜の8時を過ぎている。

「んー、地区大会が近いから。おばあちゃん、もう部屋に引き上げちゃったね。お姉ちゃんも寝ていいよ」

うん、と言いながらも、体が勝手にキッチンに向かっている。菜津希の分の夕食を温めるために。

私が高校に入った頃くらいだろうか、祖母が風邪をこじらせたのは。1か月も寝込んで、回復はしたものの、健康に対する自信を失ったらしく、祖母は少し慎重になった。体を気遣って、一層早寝になった。

それと同時期に、食べ盛りの私たち3人は、祖母の用意する食事が物足りなくなった。

だから、祖母が用意してくれるものの他に、何品か、私が料理をするようになった。瑞樹も菜津希も部活や友達づきあいがあって忙しい。一方の私は、帰宅部で友達もいないから。


「おいしそー。グラタン♪」


菜津希のその浮かれた声に、ふっと、自然に笑みが零れる。

「もうわかったの?においがする?」

「うん。トースターの音とチーズのにおいで、決まりだよね。そろそろ食べたい時期だったし」

だから、料理は楽しい。かわいい妹が、喜んでくれるから。

「あれっ?これだけ?」

目の前にグラタン皿を置くと、明らかに菜津希ががっかりした声を漏らして、隣の席で瑞樹がぎくりとする。

「瑞樹ぃ…」

「あー、俺、由澄季を寝かしつけて来るわー」

「ちょっと待ちなさい!あたしの分まで食べたでしょ!吐き出せ!」

「う!げほっ、ま、マジで苦しいわ、菜津希」

ひそかに好きな人が、食べてくれるから、料理は楽しい。

だけど、こうしてじゃれ合うふたりを見るのは、嬉しくも辛く、楽しくもつまらない。心の中はマーブル模様のまま、何年も何年も淀んでいるみたいだ。

その心の入口に、重たいシャッターをがしゃんと下ろしておく。


ふあ。


あくびが出て、眠気に気がつく。私はそのまま居間に二人を置いて、お風呂に入った。

私たちの両親は、二人とも小学校の教師をしている。瑞樹の母親は、フリーライターをしている。私たちの両親は、遅くとも10時ごろには帰ってくるけれど、瑞樹の母親は何日も家にいることもあれば、何カ月も帰って来ないこともある。

だから、私たちは、こうして祖母のもとで、お互いにちょっとだけ助け合いながら、暮らしている。

温かいお湯で、体の汚れや疲れとともに、心の汚れや疲れまで、浄化しているような気がする。

毎日、瑞樹と菜津希の様子を目にした後に、浴室で零すため息は、私の心を落ち着かせるためには重要なもの。

ため息は幸せを遠ざけるなんて言うけれど、こんな共同生活を営んでいる私には、落ち込んだ顔をする場所は、トイレか浴室しかないんだから。


髪を乾かし、歯を磨いて、2階にある自室に入ると、当たり前のように瑞樹が私の勉強机に座っている。

「今日は、ここ」

いつもは明るく感じられる瑞樹の声が、こうして寝入る前の習慣の時間になると、低く感じられるのはなぜだろう。

「ん」

瑞樹が開いた教科書を見て、通学鞄から自分のノートを出し、机の上に置いた。
瑞樹は、英語が一番の苦手科目なのだ。でも、かわいそうなことに、英語という教科には、予習がつきものである。そして、ほとんど毎日授業がある。

「だめ、初めは自分でやって」

何度言っても、すぐに私のノートを丸写ししようとする瑞樹に、思わず笑いがこみ上げるけれど、頑張って怖い顔をして見せる。

「わかった」

ちょっとすねた顔も、好きだ。毎日のように見るのに、毎日のように好きだと思う。


甘酸っぱい感情が胸に広がるのを感じながら、私はベッドに横になる。こうして、机に向かう瑞樹の横顔を見つめている時間が、一日の内で一番好きだ。

高校3年生にもなってるのに、まだ四苦八苦して辞書を引いているところも。

私のノートを大事そうにめくるところも。

ときどきちらりと私の様子をうかがうところも。

全部全部好きだ。

そんな瑞樹の様子をしっかり目に焼き付けてから、ようやく私は分厚いレンズの眼鏡を外して、枕元に置いた。


「まだ眠れないの?」


いくらか時間が経ってから、瑞樹がそう問いかけるのも、毎度のことだ。私が小さく頷いて見せるのも。
私は寝つきが悪い体質だ。体を起こして動いているときには、ちゃんと眠気を感じているにもかかわらず、横になってから眠りに落ちるまでに、ずいぶん時間がかかる。

それなら、9時なんかにベッドに入るなって、菜津希にだって言われる。だけど、それを10時にしても12時にしても、結局1時間くらいは眠れないってことに、もう気がついた。

目を閉じていると、頭に温かい手を感じた。薄く目を開くと、瑞樹が微かに微笑む。

「まだ、写しちゃだめ、だから、ね」

良い子、良い子、ってしてもらうみたいに。瑞樹に優しく頭を撫でられると、少しずつ眠くなる。

いつもは瑞樹の方がうんと幼いくせに、一日の最後には、ちょっとだけお兄ちゃんみたいになる。

「わかってるよ」

落ち着いた声が聞こえると同時に、瑞樹の息がふわりと温かく頬にかかって、なんだかこのまま死んでもいい、と思ってしまった。


その直後、死んだかと思うくらい深い眠りの中に落っこちた。




無言で、向かいの家の鍵を開けて、玄関に入る。夏の朝は早い。すでに日は昇っているのに、1階に人の気配はない。

ダイニングのテーブルに、私が用意した弁当と、祖母が作った朝食の乗ったトレイを置く。

それから、階段を上っていく。


そして突き当たりにあるドアを開けたら、そこだけは、季節を間違えたのかと思うくらいの気温だ。

「さむっ」

いつもながら、どうしてこいつは風邪を引かないんだろうと思う。これだけ設定温度の低い部屋で、タオルケットひとつかぶってないくせに。

あ、なんとかは風邪引かないんだっけ。頭の中でだけ毒づいておく。

身震いしながら、瑞樹の枕元にあるはずの、エアコンのリモコンを探すのも、私の朝の日課だ。

あ、あったあった。壁際に目当てのリモコンを見つけて、眠る瑞樹の向こう側へと手を伸ばした時。


「ぎゃっ!」


投げ出されていたはずの瑞樹の両腕が、私の背中に回ってきて、ぺしゃんと体勢を崩した私は、猫が尻尾を踏まれた時そっくりな声を上げた。

「…ぅおわあ!!」

私に下敷きにされた瑞樹も、さすがに目が覚めたらしく、変な悲鳴を上げた。

はっとしてお互いに距離を取ったものの、不自然な近さで目があったその時、瑞樹はこう呟いたんだ。


「ごめん、間違えた」


どきんどきんって、乙女らしくときめいていた胸の音は、あっという間にずきんずきんっていう残念な音に変わった。


「寝ぼけてる暇ないよ。とっとと起きろ」

「あてっ」

いつもより幾分、強めに彼の額をぺちっと叩いて、私は瑞樹の部屋を出た。誰もいないリビングを抜けて、玄関から外に出る。預かっている合鍵で玄関の鍵をかけた瞬間。


ぼろぼろと涙が出てきて、自分でもびっくりした。


私はあまり泣く方ではない。泣いても何も解決しないってわかっている。泣く暇があったらやるべきことがあるって考える。
でも、「この件」に関して、私にやるべきことは何もない。

この恋は、進むことも退くこともできないままで、私はただ、痛みに耐えながら、この位置で立ち尽くしているしかない。


瑞樹が何を間違えたのかは明白だ。

寝惚けていたから、似ていないのに、私を菜津希だと勘違いしたのだろう。と、いうことは、ああやって、瑞樹は菜津希を抱き寄せることも、あるのだろう。


ごしごしと涙を素手で拭い、頭を振る。そんなこと考えたって、どうにもならないのに。


いつの間にか、すっかり力が強くなっていた、瑞樹の腕の感触を、温度を、ありありと思い出す。

胸が痛いやら痺れるやら、頭がおかしくなりそうだった。