「ふふっ」

春休みになって、帰省した私の顔を見るなり、菜津希が笑う。

だから、帰ってきたくなかったんだ、とひそかに思うけど、これ以上生き物に触れあえない時間が続くと私も辛い。歳をとったコロンの様子も気になるし。

「…お母さんたちは?」

相手にしない方がいいだろうと思い、ムッとしたのを押し隠して両親と祖母を探す。

「出かけた」

私から視線をそらさずに、菜津希がさらりと答えて、また「ふふっ」と笑う。

「不景気な顔。彼氏いません、って顔に書いてあるね」

はあ。重いため息が出てしまう。

まだ、菜津希の様子がおかしい。怒ってるんだろうか。そりゃ、そうか。仕方ない、私が悪いし、こんな状況だって、自業自得だとはわかっている。

これまで菜津希は、ずっと容姿のことであれこれ言われている私に対して、何か意見したことはなかった。どうでもいいんだろうと思っていたけど、今は攻撃したい気分らしい。

「相変わらずサミシソウ」

そんなこと今に始まったことじゃないけれど。20年間、彼氏と呼べる人がいたことが一度もないのだから。
心の中ではそう思うけれど、それをすでによく知っているはずの菜津希に対して答える言葉でもないから、彼女の視線を振り切って、2階の部屋へ続く階段へと足をかけたとき。


「瑞樹、荒れてた?」


菜津希がはっきりした声でそう訊ねてくる。一瞬足が止まった私に、菜津希は追い打ちをかけるのだ。

私を「菜津希」と呼んだ、瑞樹の酔って軽くなった声を思い出すと、胸がずきんと痛んだ。

「お姉ちゃん、私よりちょっとだけふっくらしてるから、抱き心地いいんだ、きっと。一度寝たときの具合がよかったからって、私を手放すべきじゃなかったんだよ、瑞樹は」

痛い、痛い。

菜津希の言葉が私に突き刺さる。

何も答えられない私に対して、菜津希は攻撃の手を緩めない。


「そんなに後悔するなら、ねえ?」


そうとどめを刺されたなら。

息をするのも苦しいくらい、胸が痛かった。

瑞樹が自棄になっているのは、私が瑞樹を受け入れなかったせいだと思い込んでいた。でも、菜津希を失って後悔しているからかもしれない。

そう考え始めると、いろいろなところのつじつまが合ってくる気がして目眩がした。

菜津希はどこまで知っているのだろう。瑞樹はどこまで菜津希に話してしまったのだろう。

ほんと、馬鹿だ。瑞樹も、私も。

「一度寝たときの具合が良かったからって」と言われると、やたらと性急に私を抱こうとした瑞樹を思い出す。菜津希は、浮気相手のことを、瑞樹よりよっぽど必死で情熱的だと表現したこともあった。

抱き心地の良さから、瑞樹は私に執着していたんだろうか。心の奥底では、他の男に抱かれる菜津希を切り離したことを、後悔しながら。

ただ自分が順序や倫理観にこだわって瑞樹をはねつけた時よりも、私の胸の痛みは深く鋭くなった。


瑞樹が私にこだわったのは、ほんの一時の気の迷い。


そう結論を導き出すと、もう消えてしまいたいくらいの自己嫌悪で、駆け込むようにして入った自分の部屋。

わたしはしばらくベッドにもぐりこんだまま動けなかった。






大学で全ての講義を受けて自宅に戻ったら、薄暗い部屋の机の上で、何かが光っていた。

近頃すっかり持ち歩かなくなった携帯電話だった。


高校時代に、廣太郎と連絡を取るため持ちはじめたものだけど、彼とは同じ大学の同じキャンパスに通うようになった。用事があるときに、私の電話が通じなければ、廣太郎は学食の入口で私を待っている。

そうなると、私が携帯電話の存在を忘れがちになるのも、無理のないことだった。


その忘れ去られたもののディスプレイで、ずいぶん久しぶりな番号からの着信を確認した時、思考回路が一時停止した。

12:25 可美村瑞樹 伝言あり

「伝言」。しばらくためらった後、それを聞いてみたら、そこまでの躊躇や遠慮は吹っ飛んだ。


「ゆう…」


あっという間に時間が巻き戻されたような錯覚。

「風邪引いた…。助けて」

掠れた声とともに、熱のこもった呼吸まで聞こえた気がして。

昔から、瑞樹は風邪を引くとやたら弱気になった。いつもが健康そのものだから、余計に堪えるのかもしれない。

そのメッセージには、こんな続きまであった。

「来てくれるまで、鍵を開けておくから」

慌ててキッチンに向かって、とにかく瑞樹が食べられそうなものを作っては詰める作業に没頭した。


あんな男、もう放っておけばいいのに。

甘くて弱くて、優柔不断で。悪いところばかり思いつく。


…着信のあった12時台、大学は昼休みだから私に繋がると思ってかけたんだろうか。今はもう夕方だけど、アパートの部屋でひとり、倒れてはいないだろうか。

いやいや、他にも瑞樹の世話ができる人くらいいるはずだ。どこにいたって友達に恵まれる人間だから。

いろんな葛藤が、自分の中で渦巻くけれど、最後は耳に残る「ゆう」という切実な声で、全部消える。
だめだ、あんな声で呼ばれたら、やっぱり放ってはおけない。


気がついたら、どれだけ急いで来たのやら、瑞樹のアパートの部屋の前に立っていた。もう二度と来たくないと思っていた、まさにその場所に。

酔っ払った瑞樹が、私を菜津希と呼んだところだ。知らない女と帰って来た場所だ。

思い出すと胸がひりひりして、足が竦んだ。

でも、ずいぶん静かで、明かり一つ漏れていない瑞樹の部屋の様子に、結局は心配の方が勝ってしまって、そっとドアノブに手をかけた。


ドアは、瑞樹の宣言通り、呆気なく開いた。なんて不用心なんだろう。

いくら瑞樹の体格がいいからって、風邪で寝込んでいたら、強盗に勝てそうにもないのに。まあ、強盗も避けて通りそうな古いアパートだけど。

はあ。呆れながらそっと部屋の様子をうかがうけれど、ずいぶん静かだ。靴を見ても、他に人はいないらしい。そのことをまず確認してしまった自分が嫌だ。

頭だけ突っ込んだ状態で、近所の人に怪しまれてもいけないと思い、静かに中に入った。


薄暗いワンルームの部屋の中で、目を凝らすと、奥のベッドがちゃんと膨らんでいたから安堵した。
静かに近づいて、様子を確認する。背中を向けていたらしい瑞樹が、ふいに寝返りを打ってその顔を見せたから、どきりとした。


瑞樹。


胸から想いが溢れかえりそうだった。この人生でたった一人、恋した人だから。もう二度と会うことはないのだと思っていた人だから。

ふう、とゆっくり息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。

おそるおそる額に触れてみると、予想通りたいした熱じゃなくて、思わずくすりと笑ってしまった。相変わらず、熱に弱いな、瑞樹は。


とにかく、とりあえず安心したおかげで、頭の中がすっきりと冷静になった。持って来た荷物から、小分けにして容器に詰めたお粥や、おかずを冷凍庫(氷とアイスクリームしかない)に入れる。

すぐには使えないけど、やっぱりないらしい氷枕も入れておこう。

普段、何飲んでるんだろう?冷蔵庫にもまともな飲み物や食べ物がほとんどなくて、結局また心配がぶり返してくる。とりあえず、イオン系飲料やゼリー、すりおろしてきた林檎を入れておく。
部屋の真ん中の座卓に、葱を始め野菜たっぷりの煮込みうどんを入れた容器を置いたら、今度は部屋の汚さが目に付いた。

こんなところだから、風邪引くんじゃないか。

静かに、物をまとめるけど、しまうべき棚とか一切ない。一体どうやって暮らしてるんだ、瑞樹は?

そっと、キッチンのシンクに溜まった食器類を洗って、ゴミをまとめた。


…しかし、ちっとも起きないな、瑞樹。

やろうと思っていたことと、思ってもなかったことまで、だいたい終えたので、そろそろ帰らなきゃならない。

早く帰りたいという気持ちとともに、まだここにいたいという気持ちもあって、しつこい自分の感情にちょっとがっかりだ。

最後の一仕事は、瑞樹のおでこに冷えピタを貼ることだ。

すうすうと安らかな寝息を立ててぐっすり眠り込んでいる瑞樹に近づくと、にわかに緊張してきた。
さっき、熱をみたときみたいに、まだやることがいっぱいある状態のうちに、貼っとけばよかった。ひそかにそんな後悔をしながらも、瑞樹の寝顔から目が離せない。

変わらないな、無邪気な顔。かわいくて、愛しい。


でも、少し痩せた。

そう、瑞樹は痩せた。そのことに気がついた自分に、胸が痛い。こんなにもまだ、瑞樹の面影を鮮明に焼きつけたままで暮らしていたなんて。

他の人が痩せたって気がつかないくせに。


前髪を払って、瑞樹の額が露わになると、思わず唇を寄せていた。

瑞樹も、こうして私の額に毎晩キスしてくれた時期があったっけ。

それも、今では遠い昔みたいだ。


自分の言動が、今の結果を招いたことを思い出したら、いろいろと後悔しそうになるけれど。不器用な私だから、どんな道をたどっても、いつかこうなっていたような気もする。

唇で触れた皮膚はやっぱり熱くて、大したことないとは言っても、熱はあるな、と考えながら、心配な気持ちや、名残惜しい気持ちを抑えて離れた。

キス、しちゃった。いいよね、労働の対価として。

勝手にそう判断して、ようやく冷えピタを貼ると、はあ、と瑞樹の唇から小さなため息がこぼれた。

口にもしたいなぁ。

自然にそう思った自分に、ひとりで赤面しつつ、私はすっくと立ち上がった。駄目だ、こうして無抵抗な瑞樹を見ていたら、そのうち行動がエスカレートしそうだ。


私に、その資格はない。

菜津希を傷つけ、瑞樹を傷つけ、それでもまだくすぶる想いに、今ではひとりで耐えるしかない。

後悔と心配と、そして愛しく思う気持ちが、混ざって激しくなって、私を飲み込んでしまう前に、と慌てて瑞樹の部屋を出た。部屋の座卓に放り投げてあった鍵で、施錠して、郵便受けから玄関に落としておいた。

ちゃりん。

予想以上に高い音が響いて、私はその音に追い立てられるようにして、駅に急いだ。
瑞樹に見つかりたくないから。

熱に浮かされて、無意識のうちにかけたのだろう、瑞樹の電話を真に受けて駆けつけたこと、何か言われると困る。


瑞樹が見たことのないような冷たい表情で、私の作った食事を捨てたり、冷えピタを剥がしたりしてる場面を想像しながら、電車に揺られていたら、気分が悪くなってきた。

自分の部屋に辿りついた時には、すっかり気が滅入ってしまっていた。


出かけるときに、心配と、それから、今思うと歓喜の気持ちでいっぱいで、興奮状態だったのが、嘘のようだった。

私に電話をかけて来るなんて、瑞樹がまともな状態だったはずはないのに。

あれきり、顔を見せるどころか、電話はもちろん、メールすら来ないのだから。


寂しいからだ、と。私と寝たとしても、瑞樹は悪くない、と固く信じていた。

…でも、それなら、瑞樹に会えないのが寂しくて、他の男と浮気を重ねる菜津希の行動だって、正しいものだと言うことになる。

そのことに気付いた時、私は愕然とした。

誰が正しいとか、正しくないとか、部外者である私が考えること自体が間違いだったんじゃないかって。


どちらにしたって、ふたりのことに関心を持つべきじゃなかったし、彼らの仲が持ち直すにしてもいずれ壊れるとしても、これまで通り静観しておくべきだった。

そうなると、瑞樹にとっての諸悪の根源は、菜津希ではなく、むしろ私自身なのかもしれない。

私が下手に手を出さなければ、これまでどおり瑞樹は菜津希のペースに押され、最後は押し切られて結婚までしたかもしれない。それは、菜津希にとってももちろんだけれど、瑞樹だって、今の状態より、よほど彼にとって幸せだったかもしれない。


だとしたら、瑞樹を苦しめる原因を作ったのは、やっぱり私?

ややこしい嫌な方程式、それがほろりとほどけるようにして解が導かれた。


そのことに気が付いてしまったら、ひどくこめかみが痛み始めた。刺すような痛みだ。でも、今の私には相応しい。

それからきっちり3日間、わたしはたった一人で寝込むことになる。


たぶん、瑞樹の看病に行くよりしばらく前に、違う風邪を貰ったんだろう。瑞樹の症状どころじゃないひどいものだった。

高い熱で唸りながらも、偶然とはいえ瑞樹のおかげで、備えだけは完璧だったから、家を一歩も出ることなく眠り続けた。

誰かに助けを求めることもなく、ただひたすらに、自分の軽率だった行為の数々を後悔し続ける重く長い時間だった。