「おわわい」

もごもご口を動かしながら話す瑞樹。「おかわり」って言ったんだろう、きっと。

相変わらず旺盛な食欲に、自然に笑みを浮かべながら、私はお皿に唐揚げを載せる。

「はい」

いつものように横に立って瑞樹の前にお皿を戻したら、なぜだか、瑞樹がじいっと私を見る。

「な、に?」


不思議に思って見つめ返していると、急に腰を抱き寄せられて、言葉が切れた。

座っているせいで、いつもならずいぶん上にあるはずの瑞樹の頭が、私の鎖骨辺りに押し付けられている。

「甘えたいの?」

皮膚が、瑞樹のなめらかな肌の温かさを感じて、心臓はどくりと脈打っている。

「うーん」

顔も見えないくらい密着してる瑞樹の答えは、どちらにも聞こえて、彼の真意を読み取ることはかなわない。

簡単にはほどけそうもない両腕にため息を吐いて、私は瑞樹の頭に、そろそろと腕を回した。

これはまだ、幼馴染みの範疇に入る行動だろうか?どうにも、自信がない。一度ぶち壊してしまった柵を慌てて作ったけど、そのラインは正しいのだろうか?ずれてはいないだろうか?

胸の内の騒がしい声を押し隠しながら、瑞樹の固くて短い髪を撫でていると、今にも好きだと呟いてしまいそうで、怖くなる。

自分の中で、忙しく葛藤していたから、どのくらいの時間そうしていたのか、よくわからない。

ふいに瑞樹が離れ、またじいっと私の目を覗き込む。

「落ち着いた?」

私の気持ちが、読まれませんように。そう念じながら、その目を静かに見つめ返した。

「うん…」

なんだかすっきりしない顔で、なんだか仕方なさそうに答えて、瑞樹はようやく腕をほどいたのだった。

寝入り端、唇に瑞樹を感じた。

そのまま深い眠りに落ちようとしていたのに。繰り返し触れてくる、その柔らかい感触に、途切れかけていた意識が少しずつ乱されていく。

でも今日は、鉄壁の意志をもって、この肌触りを無視しようと思う。絶対に、絶対に、このまま眠ってしまおうと固い固い決意をした。

寝たふり。寝たふり。そのまま本当に眠ってやる。そう心に念じていた。

が。


「…ん」

鼻から抜けるような甘えた声が漏れて、自分でもぎょっとしてしまう。

ぱちりと目を開けた私に、瑞樹が微笑んだ。

「ご、めん。なんか変な声が」

恥ずかしくなって、そう言うと、瑞樹がちゅ、と音を立てて私の唇を吸ったから、ますます混乱する羽目になった。

「なんでこんなことするの?変だよ」

しっかりと私に意識があるとわかっているのに、こんな甘いキスをされる理由がわからない。

「なんでって言われれば、由澄季を俺に夢中にさせるため、かな」

「も」
「も?」

危ない、「もう夢中だけど」って言いかけた!

「もったいない」

「はあ?」

…なんで私をこれ以上に夢中にさせる必要があるんだ。わけがわからない。

「そんなことに時間を割くのは、もったいない」

「はああ?よくわかんね」

「とにかく、瑞樹は変だよ」


「由澄季の方が、変」

そう言いながら、また瑞樹は私の髪を撫でる。

「どこが?だいたい私が変だってことくらい、とっくにわかってるでしょうが」

慣れた感触にほっとして、思わずうっとりしながら尋ねると、瑞樹は答えた。


「態度が変。何もなかったことにするつもり?あんなことしたのに」


唐突に核心を突いてきた。

「何もなかった。あれはね、エッチな夢見ただけだよ」と呟くと、瑞樹と裸で抱き合ったことなんて、本当に、今となっては夢みたいだった。


「なにそれ。元通り、ただの幼馴染みに戻れると思ってたの?」

瑞樹は、相変わらず質問が好きだけど。今の訊き方には、正直、ずきりと胸が痛んだ。

ただの幼馴染に戻りたいけれど、もしかして、それは許されないことなんだろうか。

思わず息を呑んだ私に、瑞樹が僅かに眉根を寄せた。

「当たりかよ」

少し低くなった声が鼓膜を震わせたと思ったら、もう両手首をベッドに押さえつけられていた。

「由澄季は俺のこと好きなのかと思ったのに」


呟いた瑞樹の台詞にどきりと肩が跳ねてしまったけど、彼のその声がいかにも寂しそうで。

かといってあんたのことが好きなんだと反論することもできない。長年隠した気持ちが、そんなふうに簡単に伝わってしまうなら、できるだけ肌が触れ合わない方がいい、と感じるのに。

目も閉じないで、私に、再び口付ける瑞樹。

唇の隙間から、舌を感じると同時に、パジャマをたくしあげられたから、焦った。

「だ、め」

身を捩ってキスの合間にそう言うと、瑞樹は困ったように言った。

「ヤりたい」

あまりに表現がダイレクトで、思わず苦笑した。

「菜津希とヤりなさい」

言いたくはないが、私の立場では、そう答えるしかない。

「菜津希は他の男とヤってるから」

私は、想像以上に菜津希が自棄になっていたのだと思い知った。瑞樹が「浮気」としか表現しなかったことは、ずいぶん程度の重いものだったらしい。

「俺が発情したときも、付き合ってよ。この前協力しただろ?」

そう言われたら、瑞樹の手が服の中に入っても、もう返す言葉は見つからなかった。確かにあの時私は、発情したからなんとかしろって迫ったのだから。

「ちょ、っと…、瑞樹、くるし、い、…ってば。お、ちつい、て」

剥ぎ取るように私のパジャマを脱がせながらも、激しく唇を求めてくる瑞樹。言いたい言葉も一息には言えない。

「…無理」

ようやく返ってきたのは、ため息混じりのそんな返事だった。

「はあ?」

「1週間我慢してたから、加減の仕方がわからない」

「…よく、わからないけど、落ち着いて」

1週間が特に短いって気がしない。だいたい菜津希とは、もう何ヵ月も会ってないはずだ。

「んー、やっぱ無理だ」

今度は両手に指を絡ませながら、瑞樹は強く唇を押し付けて、私の舌を吸い出す。

ヤバい…。

ドライに、割り切るんだと、必死で自分に言い聞かせてみるのに。

心臓が太鼓みたいに大きな音をさせて、すでに、意識も感覚も瑞樹にしか向いていない。

一体どうなってるんだろう、こういうときの女の心や体って。

「…ぅ、み、…ずき、…だめ……」

かろうじて抗うように腕を突っ張ってみせても、すぐに抱きすくめられてしまう。

本当にだめだ、もう体に力が入らない。

普段の暢気さが嘘みたいな勢いの瑞樹に、すでに流されかけてる。



「気にしなくていい」

掠れた声が、私の鼓膜と胸を震わせる。

「何を」

息切れしながらそう問い返す。

「菜津希のことを」

ずきり、と心臓がしなったかのような痛みが走る。瑞樹の声でその名を聞くのは、やはり楽なことじゃない。
「気にするべきだよ」

それでも、菜津希のことをすっかり忘れるのは、おかしいとも思う。

「気にしなくていいんだ」

今度はきっぱりと言って、瑞樹が私の瞳を覗き込んだ。


「別れたから」


その言葉の指すところを、理解するために、時間が必要だ。

「わか、れた?」

声に出してみても、強い違和感しか起こらない。

「うん」

瑞樹が、そう言って、再び私の唇をついばんだけど、真っ白になった頭の中の整理がつかない。

反応のない私に苦笑して、瑞樹がもう一度はっきり言った。


「菜津希と別れた」


「躊躇なく奪う」と言った廣太郎に、唖然としたのが嘘のようだ。
好きだから自分のものにしたいと、そういう気持ちになったことは、本当に、一度もなかった。

菜津希の浮気に、瑞樹が傷ついて、私が憤っていたところに、瑞樹のキスで私はすっかり我を失ってしまっただけだ。

ずっと片思いしてきた相手に、あんなふうにキスされたら、おかしくもなる。…もちろんこれは、すべて私の言い訳にすぎないけれど。

それに、瑞樹は菜津希を思うからこそ傷ついていて、寂しくて私を身代わりにキスしたはずなのだ。

だから、なぜこんな結果を招いたのか、理解に苦しむ。


「…本気で、言ってるの?冗談にしても、悪趣味だけど」

絞り出せたのは、そんな皮肉。

「冗談じゃない」

そう答える瑞樹は、私から目を逸らすこともなく、静かに落ち着いた様子だから、かえって私は動揺が大きくなる。

「菜津希と別れた」

「ば、かだね」

なんとかそう言葉を絞り出した。馬鹿だ、本当に、瑞樹は。

「そうかな」

馬鹿だとも馬鹿じゃないとも言わない、相変わらず優柔不断な答えだけど、瑞樹はふわりと微笑んで、キスを落とす。


「だめ」

まだ茫然とした状態の中、こぼれた自分の声は、どこか冷たい響きで。

「なんで?俺のこと嫌い?」

表情を読まれないように、体を起こしながら答える。

「そういう問題じゃない」

声にも感情がこもらないように努めてさらりと答えると、瑞樹は私から手を離した。

「じゃあ何が問題なんだよ?」

「私自身の価値観」

「由澄季の価値観って、具体的にはどんなふうなの?」

「倫理観」

私と菜津希と瑞樹の関係図を頭の中に描きながら、そう答えた。私の倫理観には反する行動だったとは思う、今更ながら。

「そうじゃないだろ」

「は?」

「単純に、奈津希を気にしてるんだろ」

「……」

「俺たちはちゃんと話し合って別れたんだ。何か気にすることがある?由澄季は俺よりも、奈津希のことが大事なの?」

「あ…」

遠い記憶が蘇る。菜津希と瑞樹が、私と一緒にろうそくを作ろうと揉めたときのことを。あのときのように、ふたりとも大事だよ、って言えればいいのに。

「俺を選んでよ、今度は」

「え?」

まさか瑞樹が覚えてるとは思わなかったから、「今度は」と言った瑞樹に驚いた。彼はそれきり何も言わずにじいっと私を見つめている。

求める答えを待っているのだろう。


「…菜津希に会う時間が欲しい」

「あげないよ」

即座にそう言い返して、強張った表情になった瑞樹は、まるで見知らぬ男の人みたいだった。
「菜津希の言葉を聞いたら、由澄季は俺を選んでくれなくなる。今すぐ、俺を選んで」

内心、できるだけ早く奈津希に会おうと考え続けている私を牽制するかのように、そう畳みかける。

「今の、由澄季の気持ちで、決められるはずだろ」

話すべき言葉が見つからない。

優柔不断な瑞樹らしからぬ強引な物言いに、驚きっぱなしだけど、彼の理論は間違ってはいないような気もする。

「早く」

早く、は無理だ。菜津希の口から、事情を聞きたい。その気持ちが強いから、ようやく、なんとか首を横に振ってみる。


「また、俺より、奈津希を優先するんだ?」


はっとして瑞樹の目を見つめ返す。私には、そんな記憶はない。ふたりとも大事だと思って、ふたりと一緒に作業できる方法を選んだはずだ。

「覚えてない?ろうそく作ったときのこと」

「覚えている、はず。3人で作ったでしょう?菜津希と二人じゃなかったよ」

母とみーこちゃんと私たちでどこかに出かけたとき、粘土のように練って好きな形にできるろうそくを作ったことがある。

瑞樹も菜津希も、あの頃は年長の私の真似ばかりしたがって、私とふたりで作るって言い張った。

「その後だよ」

「後?」

「俺が、由澄季のために作った蝋燭を、欲しがるからって言って奈津希にやっただろ?」

「あ…」

「それって、俺の気持ちより、奈津希の気持ちを優先したってことにならない?」

「そこまでは、私」

「考えてなかった?とにかく、万事その調子なんだよ、由澄季は。奈津希がかわいいのか、奈津希に遠慮してんのかわからないけど、いつもそうだ」

「菜津希には敵わないから」

かわいいとも思うし、遠慮もあるけど、結局は「菜津希に敵わない」っていう表現が私の妹への対応の根底にある気持ちにぴったりだと思う。

劣等感、だろうか。


「そんなことどうでもいい」

瑞樹が低い声で吐き捨てるように言うから、私はびくりとした。

「俺は、由澄季とヤりたい。由澄季自身が菜津希のことをどう思っているかは関係ない」

瑞樹の頭の中の図式は単純明快すぎて、私は苦笑いを浮かべる。


「今すぐ選んで。菜津希に会うのか、俺に抱かれるのか」


その二つがなぜ選択肢に上がるのかが、いまだに理解しきれないけれど。

支離滅裂にしか思えない瑞樹の言葉が、どこかにある私の中の真意をあぶり出していきそうな気もして。


「菜津希に、会う」


振り切るようにそう答えた私を、瑞樹は静かに見つめた。
寂しいような、悲しいような、そんな眼差しを感じられたのはほんのわずかな時間だった気がする。


一言も残さないで、瑞樹は私の部屋を後にした。


寝室の扉を閉める音、玄関で靴を履く音、がちゃりと鍵をかける音、廊下から響く靴の音、それらが順に消えて行くのを、ただ聞いていた。

もう二度と、これと同じ音は聞けないだろうと思いながら。




「お姉ちゃん、ずっと瑞樹を好きだったもんね」


菜津希が台所にそっと入って来たのは、両親や祖母が自室に引き上げてからのことだ。

急に帰省した私を前にしても、昼間はいつもと変わりない顔でリビングにいた菜津希が、今は皿を洗っている私の手元をじいっと冷めた目で見下ろしている。

「は?ずっと?」

あまりに唐突なその一言に、何と返していいのかわからなかった。

本当なら、「好きじゃないって」とか言うべきだったのだろうけど、驚いたせいでまずいところに反応してしまった。

だって、「ずっと」という言い方って、ずいぶん前から私の気持ちが菜津希にはバレていたということになるから。

菜津希が私の答えにかすかに苦笑いして、言葉を続ける。

「家族以外では、瑞樹の話しかまともに聞かないじゃん。他の人なんか、声すら聞こえてないことが多いし。瑞樹の話なんか、たいした中身がなくてつまんないのに」

私は、人の話を、ずいぶん無視していたらしい。そして、私が自覚するよりうんと前に、奈津希は私の気持ちに気がついていたらしい。やっぱり菜津希は鋭い。

「瑞樹は鈍くて単純だからさ、あっさりあたしのものになったけど、ずっと違和感を持ってたみたい」

さっきから、彼氏だった男について、ずいぶんな言い草だけど、否定はできない。

「違和感?」

「なんか、付き合ってる間中、そわそわして落ち着きがなかった」

「は?変なやつ」

「あたしとふたりきりだからだよ」

「それで何が落ち着かないんだろ。付き合う前から幼馴染みなのに」

「お姉ちゃんも案外鈍いね?頭使いなよ。瑞樹が落ち着かないのは、お姉ちゃんがいないからだよ」


「そんな、はず、は」


私ほどは勉強が得意ではないはずの妹に、頭を使えと言われるのもショック。そして、わけのわからないことを指摘されるのもショック。
「あは。珍しい、お姉ちゃんが動揺するなんて。瑞樹は優しい話し方だって、お姉ちゃんにしかしない。どうせ、気がついてないんでしょ?」

「…女々しいだけじゃん」

「あたしや男友達には、もっと男っぽい言葉で話すのにな。まあ、お姉ちゃんが知ってるはずないけど。お姉ちゃんの前ではいつも、柔らかい言葉しか使わないもんね」

「何、見当違いなこと言ってんの」

「見当違いかな?そもそも、瑞樹は、お姉ちゃんを追いかけて東京に行ったのに」

「何言ってんの?ほんとに。馬鹿だね、菜津希は」

「馬鹿はお姉ちゃんだよ。瑞樹はね、お姉ちゃんの進学先を知ったら、簡単に進路を変えちゃったんだよ。母親の力になりたいから、ここを離れないって、ずっと言ってたくせに」

そうだ、マザコンの瑞樹が、この町を離れるなんて、少し前には考えられなかったことだ。

それだけは、私も自信を持って言える。

「みーこちゃんとあたしを足しても、お姉ちゃんには敵わないのかって、思ったよ。寂しかった。生まれて初めて、男に泣かされた。

女に免疫のない瑞樹だから、落とすことだけは簡単だったけど、その後3年も付き合ったのに、あたしに夢中にさせることはできなかったのかって思ったら、心底悔しくて。

相変わらず、どうでもいい男ばっかり寄ってくるしさ。瑞樹の反応見てやろうと思って、お誘いを片っ端から受けてやったわ」

「…あんたの浮気を知って、瑞樹は悲しそうだったよ」

私が、その表情を思い浮かべながら言うと、奈津希はせせら笑った。

「ふん、全然怒らなかったでしょ?」

「そりゃあ、惚れた弱味で、怒れないんじゃない?」

「はあ?ほんと、お姉ちゃんって、男心に疎いね?普通は、相手の男にキレたりするんじゃない?瑞樹は、あたしが、めちゃくちゃやってんのが心配だっただけ。ただの幼馴染みとして」

「まさか」

「まあいいや。お姉ちゃんも瑞樹も、ひどく鈍いし」

諦めたように、奈津希はちらりと私を見た。

「自分の気持ちに鈍い二人に腹が立って仕様がない。でも、どうしても、二人のことを嫌いになりきれないんだよね」

私は、そっぽを向いた、妹の整った顔を凝視した。

それは、ここ数年、私自身が菜津希と瑞樹に対して思っていたことそのものだから。

いっそのこと、瑞樹を、菜津希を、嫌いになれたらどんなに楽だろうと何度も思ったから。


「さっさとまとまっちゃいなよ」

あっさりとそう言うから、私はため息をついた。

「まとまれるはずないでしょう」

私は、瑞樹が言うには、瑞樹ではなく菜津希を選んだことになる。

菜津希の口からも真相を聞こうとすることに、なぜあんなにも瑞樹が抵抗を見せたのかわからないままだけれど。

あれっきり、私のアパートに顔を見せることもなくなった瑞樹のことを思う。


「…ふふっ。まあね。そう簡単に幸せになってもらっても腹が立つもんね」

私は、ぽかんと口を開けて、菜津希を見上げていたことだろう。前言をあっさり撤回して、いつの間にやら菜津希は彼女らしい妖しい笑みを浮かべていたから。

「だって、あたしだけ失恋するなんて、かわいそうじゃない?最後に楽しませてもらおうと思って」

完全に、小悪魔から悪魔へと変貌している妹を、私は唖然として見ているしかない。

「瑞樹に言ってやったの。あんたがあたしと別れたときには、お姉ちゃんは必ずあたしを選ぶからって。今頃、瑞樹は荒れてるだろうね」

そう言われて、自分の顔から血の気が引いて行くのがわかった。

「お姉ちゃんの堅苦しい誠実さは、ときには人を傷つけるよ。正しい選択や順序が、いつも最善の結果を生むとは限らないということをお忘れなく」

にっこり、と微笑む妹は、相も変わらず美しい。

ただ、その背には真っ黒な羽が生えているかのようだ。



私は、ただ一言「帰る」と言い残して、慌てて帰りの電車に飛び乗ったのだった。ずいぶんと遅い時間だったけれど、本来なら眠っているような時間だったけれど、構っていられなかった。
菜津希の確信に満ちた声が、耳から離れなくて。むしろ、東京が近づくごとに胸のざわつきはひどくなった。

だから、その足で瑞樹のアパートに辿りついた時、もう心の中には焦りしかなかった。

一度自分の部屋に戻って荷物を置いて、冷静に考えをまとめてから、次の行動を起こせばよかったのに。そうしておけば、菜津希の言葉から、多少、その後の予測や覚悟ができていたかもしれないのに。


留守だった。

電気の消えた瑞樹の部屋からは、人の気配も感じられなくて、私は途方に暮れた。滅多に用事のない携帯電話は、荷物の底深くに押し込んであるから、こんなところで出すこともできない。

きゃはははは。若い女の、華やかな笑い声が聞えて来て、ふと顔を上げた。ああ、夢でも見てたかな。

やばい、今の笑い声の直前の記憶がない。一瞬、本当に寝てたらしい。

ぶるぶるっと、床に下ろしたままのお尻から、震えが上ってくる。寒すぎる、冬の東京。

「きゃあ、レトロなおうちー」
酔っ払っているらしい女の声が、次第に近づいてくるから、ちらりとその方向に目をやった時。


…待ち人来る。

古ぼけた錆だらけの階段から、先に頭を覗かせたのは、瑞樹だった。カン、カ、カツん、と不規則な靴音を響かせながら、女ともつれるようにして階段を上ってくる。


数日見なかっただけのその顔が、やけに懐かしく、その半面、なんだか変わったようにも感じられて。


「あっれぇー?」

……初めて聞く、瑞樹のこんな浮ついた声は。酔っ払っているのは、その女だけではなかったらしい。

「珍しい、眼鏡なんかかけて」

と、私にそう声をかける。…眼鏡かけてないことの方が珍しいはずだけど。だいたい、眼鏡を外すと文句を言うのは瑞樹だ。

「なぁに、この子。知り合い?瑞樹くんを待ってたの?何のつもりなのよ」

一気にとげとげしい声になった女は、私を冷たい目で見下ろしている。アルコールはどこに行った、アルコールは、と心の中だけでつっこんでおく。

「元カノだよね?菜津希」


そう言って、瑞樹が微笑んだから、私は自分が地獄にでも落ちたんだろうかと思った。

「何か用事?それとも、俺んちに遊びに来てくれたの?3人で飲む?」

瑞樹の笑顔が、言葉が、私を切り刻んでいく。

「嫌!冗談じゃない。今夜はあたしと遊ぶ約束でしょ?大人しく順番待ってたのに」

「あはっ。そうだった。ごめんな、菜津希。また今度な」

会話の内容が嘘のように、素朴な笑顔を見せる瑞樹とは対照的に、明らかに嫌味な笑みを見せつけながら、女は瑞樹の腕に自分の手を絡めた。

そして、ふたりはその薄いドアの中に消えるのだ。

振り返るのは、女の方だけ。

瑞樹は、それきり私の方を見ることもなかった。

ぱたんと閉まったドアの前で、凍えたままの手足を、どうやって温めればいいのか分からず途方に暮れた。「瑞樹は荒れてるだろうね」と言った、菜津希の言葉が、頭の中で響いている。

「荒れる」って、こういうこと?

菜津希と瑞樹は、意外と似ているんだろうか。行動がそっくりだ。

順番待ちって、何?

瑞樹は日替わりで、色んな女の子と会ってるんだろうか。



「……ねえ、由澄季?」

ぶらぶらと、莉子に付き合って街をウインドーショッピングしていたら、莉子が、そっと私の手を握ったから、どきりとした。

「ごはん、食べようね」

時刻は午前10時45分。昼食にもまだ早い時間だけれど。

一瞬で、何を言われたのか理解した。

とりあえず頷いて見せるけど、私の顔をそっと覗く莉子の顔に、天使の笑みはない。陰りのある表情に、自分が彼女に心配をかけていたのだと初めて気がついた。


「食べ物、おいしくないんだ?」

「うん」

「ごはん、作ってないの?」

「うん」

「…そっか」

手を離さないで、莉子がゆっくりと横を歩く。もう私の方は見ないけれど、うつむきがちな顔は、いつもと違っている。

「どうして、わかったの」

莉子にも廣太郎にも、自分の今の状況を話したことはない。

瑞樹が私の家に来なくなってから、ひと月ほどが過ぎただろうか。もう数えないようにしているけれど。

「痩せたよ」

ちらりと私を見やる莉子に、久しぶりに心がとくりと動いた。

「莉子は、私が痩せたって、わかるの?」

「わかるよ」

「…ありがとう」

「どういたしまして」

ようやく、莉子がかすかに天使の笑みを浮かべた。

私は、誰かが痩せたり太ったりしても、よくわからない。もちろん、体重計に乗ってみてくれればわかるけれど。

だから、両親や祖母が、風邪なんかで寝込んだ後の私を見て、「瘠せたね」と言いながら心配してくれることが、不思議で嬉しかった。
そんな些細な変化に気が付いてくれる人が、私にもいる。

家族だけならまだしも、故郷を離れたここで、他人なのに。


「廣太郎も気づいてるよ」


「そっか」

胸がじんわりと温かい。

また、莉子や廣太郎が、私の家に来てくれるときには、料理をしたり、それを一緒に食べたりしてみようかと思えた。

「洋服も緩くなったでしょう?」

「そうかな?楽だけど」

「ふふ。せっかくだから、少し買い直そう。由澄季に似合いそうな服を見つけたの」


気を取り直した様子で、莉子がぐいと私の手を引いて、にっこり微笑む。

街は冷え込んでいて、私の心も凍えていて、足取りは重かったけれど、真っ暗だった目の前に、微かに明かりがついたような気がした。


あれから、私はいろいろ考えた。

考えてみて、むしろ今のこの状況は、もっと早く辿り着くべきところだったんじゃないかって、思った。

「東京の大学へ行こう」と決めたとき、新たな道が目の前に広がったみたいに感じたっけ。

それは、自分の好きな分野の勉強に打ち込めるから、というだけじゃない。

瑞樹と菜津希から離れて、一人きりになりたかったからだ。

菜津希に感じる劣等感も、瑞樹に対する思いも、置き去りにして身軽になった自分自身で、新しい生き方を探したかった。


それなら、多少遠回りや間違いがあったものの、ふたりと決別した今、その願いはかなえられたと言ってもいいんじゃないだろうか。


それなのに、どうしてこんなに、私の目の前は暗く曇っているんだろう。


ただでさえ鈍い心は、ほとんど動かなくなった。

好きな勉強にも集中できなくなった。

料理もしなくなった。

食べ物の味が消えた。

眠気を感じなくなった。



瑞樹の存在は、私にとってただ「好きな人」と言うには大きすぎたらしい。

今の私には、それを自覚するのがやっとのことで、思い描いていた新しい生き方なんて考える余裕すらなかった。