廣太郎と、ときどき寄るカフェがある。そんなハイカラな場所、私は東京に出てから初めて足を運ぶようになったんだけれど。

そのカフェは、廣太郎いわく、莉子も好きな店らしい。

「ん、美味しいね、お酒も」

夜になると、アルコールもメニューに出る。

店構えは、チェーン店のカフェと変わらない気軽なものなので、お酒が飲めるのが不思議な気もするけれど、注文してみるとアルコールと数学の方程式の相性はなかなか良い。

「はっ。酒飲みながら勉強すんのなんか、お前くらいだろうな」

そう言いながら、廣太郎は、ガラス越しに、通りを歩く人たちを見ている。彼は、人間観察が好きらしい。

「へへ、私の生き甲斐だからね、勉学は」

そう言いながら、さらさらと手元のメモに、計算式やグラフを書いてみる。


「…おい、お前のもうひとつの生き甲斐、つまり、好きな男がガン見してるけど」


廣太郎が、声のトーンも落とさずにそう言うから、私は慌ててその口を塞いだ。

「どこで」と言いかけた言葉は喉元で消滅。
私たちが座っている席が接しているガラスの外側に、瑞樹がへばりついている。馬鹿だ。

でもまあ、この厚いガラス越しなら、廣太郎の不用意な発言は、きっと瑞樹の耳には届かなかっただろうと安堵のため息を漏らした。


「あいつ、あんな怖い顔立ちだったっけ?」

ふと歩き出して、瑞樹が姿を消すと、廣太郎はそう言った。

「へ?どっちかって言うと緊張感のない顔してると思うけど」

私がそう言うと、廣太郎はぶっと噴き出しながら「それも失礼な言い様だな」と言った。

そして、ふと一点で視線を止めて、そのまま私に囁いたのだ。


「来たぞ。あいつがいる間、俺が何しても文句言わないで我慢してろ」


「来た」のは、「あいつ」って言われてるのは、瑞樹なんだろう。それは理解したから、勝手に心臓がどきどき弾み出すけれど。

廣太郎が何を企んでいるのかはよくわからないままだ。
「遅くまで何やってんだよ」


傍に来るなり、瑞樹が、いつになく低い声でそう言い捨てるから、びっくりした。

「え!?」

瑞樹らしからぬ発言に、思わず大きめの声が出て、慌てて口を塞ごうとしたら、隣からごつい手が出てきて代わりに塞いでくれたから、また「え!?」と言いそうになる。

「声がでけえ、由澄季」

耳元で廣太郎が囁くから、慌てて小さく頷いて見せると、彼はふっと微笑んで、手を放した。

「だって瑞樹が」

そう言いかけて、瑞樹の顔を見るけれど、むすっとしてるから、続きの言葉は引っ込めた。

だって、瑞樹も同じ時間に外にいるくせに。

それに、偶然会った時なら合流して、最後には一緒に帰るのが、瑞樹らしい行動パターンのように思える。

「それにあんた、由澄季って名前で呼ぶなよ」

そう言って冷たい目で廣太郎を見るから、ぽかんと口が開いてしまう。

いよいよおかしい。瑞樹は人付き合いが上手い。その上手さ加減ときたら、神業だ。私から見るとそう思えるくらいなのに。
「なんでだよ?『由澄季』と俺は親友だから。な、由澄季」

そっと、私の顎を持ち上げて、口を閉じてくれる廣太郎の手つきが、いやに優しい。

「う、ん」

廣太郎も、やっぱりおかしい。

「親友だか何だか知らないけど、男とふたりで酒とか飲むなって」

私の前に置かれていたグラスを取り上げたかと思ったら、一息に煽ってしまう。

「でも、ここは家じゃないでしょ。それに、廣太郎は男って言うか、その前に友達…」

私がなかば呆然としながらそう答えると、隣から廣太郎が遮った。

「じゃ、一緒に飲んでいけば?それなら安心だろ。まだ由澄季も飲み始めたところだし飲み足りないって」

そう言いながら、自分が飲んでいたお酒のグラスを私の口に近付けてくるから、仕方なしにごくんと口に含んだら、なんとウイスキーのロックだった!キツい!!

がたん!

むせそうになるのをなんとかこらえていると、大きな音を立てて、瑞樹が向かい側の席に座った。まあ、一緒に飲むってことを意思表示したんだろうけど。

いつもは私の母性本能をくすぐってくる愛らしい目が、鋭くこちらを睨んでいるから、私は混乱する。

「何か、あったの?」

瑞樹にそう尋ねてみるけれど、返事もない。

「ま、そっとしておいてやれよ。お前は好きな勉強やってろ。この式、解けるか?」

そう言って、廣太郎が私のメモ帳にさらさらと方程式を書き上げる。

「いいね。綺麗な式だね」

「だろ?解くのも綺麗に解けよ」

「ふふっ」

だから、廣太郎といるのは楽しい。そう思った直後には、夢中になってその方程式を解いていた。


「あんたさ、彼女がいるだろ。こんなところで二人きりで由澄季といていいわけ?」

「俺、あんたじゃなくて廣太郎ね。俺の彼女は由澄季とも友達だから、問題ないんだ、瑞樹くん」

「なんで俺の名前…」

なにやら文句を言いたげな瑞樹の言葉を遮った廣太郎の言葉は、不穏な響きを纏い始める。

「それより、瑞樹くんこそ、彼女の目の届かないところで、ずいぶん由澄季と親しいんじゃね?」

「は?」

「由澄季はさ、磨けば光るタイプだし、その割に中身は素朴で欲がない。文句ひとつ言わねえし、本命に怒鳴りこむことも考えられない。2番目にはもってこいだよなぁ」

集中していたはずの意識が、ぐらりと二人の会話に傾いていく。その上、次第に廣太郎の視線が、目の前の瑞樹ではなく、横に座っている私の方に注がれてくることに気がついていて、私は困惑した。

こいつ、何を企んでる…、嫌な予感。

そう思い始めたところで、廣太郎がするりと私の頬を撫でたから、肩が跳ねた。


「俺と、由澄季を共有しない?」


何を言っているのか、すぐには理解しかねて。

なぜか肩まで組んでくる廣太郎の態度に「一体どうしたの」という問いかけが喉までせり上がってきた。

が、耳元に唇を寄せた彼が「もうちょっとの我慢」と囁いたから、瑞樹が現れたときに言われたこと思い出して、なんとか踏みとどまった。

そう言えば、廣太郎は「あいつがいる間、俺が何しても文句言わないで我慢してろ」って言ったんだった。

きっと何か考えがあるんだろう。


「てめえ、そんなことしたら」

ゆらりと立ちあがった瑞樹の顔は、少し赤くて。肩が軽くなったと思ったら、廣太郎を掴みあげている瑞樹の手が見えて。

私は完全に思考回路が止まってしまった。

瑞樹がこんなに怒ったところを見たことがない。その上、何に対して怒っているのか、理解ができない。

「そんなことしたら、何?瑞樹くん、怒れる立場じゃないはずだけど」

どうやら瑞樹を挑発してるらしい廣太郎の足を、テーブルの下で踏みつけた。

でも、その一言で、瑞樹の目はだんだんぎらつきを失っていく。野生動物が、やっと、ペットに戻る。そうしてなぜか、私をじいっと見るのだ。私も切なくなるような目で。

こんな顔、する人だっただろうか。

ため息をついた後、瑞樹は突き飛ばすようにして廣太郎を離した。


「由澄季、帰ろう?送って行くから」


表現は提案なのに、まるで訴えるような顔と口調の瑞樹を見たら、「うん」と頷いて、席を立っていた。

どこか不安な気持ちで、廣太郎の顔を見上げると、彼はふっと面白そうに笑って、珍しく私を抱きしめた。

「またな、由澄季」

おっきいな。廣太郎も男なんだなぁ。もちろん、それは知ってたことなんだけど。

何やら思うところがあったらしく、いつもと態度が違った廣太郎は、まるで大丈夫、と言うように背中を撫でてくれた。

すると、不思議と気持ちが落ち着いた。

「またね、廣太郎」

私がそう答えて離れると、瑞樹は何も言わずに私の腕を引いて、足早に店を出たのだった。

From 望月廣太郎
Sub. Good luck!
本文 せいぜいうまくやれよ。


…はあ。

無意識のうちにため息が漏れたらしく、テレビを観て大人しくしていた瑞樹が、こちらを振り返った。

「何?」

「いや、何でもない」

まさか、瑞樹の機嫌が悪いから、廣太郎にムカついてると答えるわけにもいかず、そう答えた。

廣太郎が何を企んでいたのか、結局のところ、私にはよくわからない。

2番目にはもってこいだとか、失礼な発言をされた上に、瑞樹がイライラしているその空気のピリピリした感じを味わい続けているこの状況の、何が私の「幸運」につながるのか、理解に苦しむ。

なのに、瑞樹は相変わらずの仏頂面で、こちらに近づいてくるから、思わず身構えた。

「着信?メール?誰からだったの?」

「え、メール…、廣太郎から」

別段隠すような関係でもないから、そう告げてはみるものの、どうにもこうにも、瑞樹にとっての廣太郎は稀にみる相性の悪さらしい。その不機嫌そうな顔は、めったに見ないものだ。

「さっきまで会ってたのに、何の用事?」

「よくわからない」

「見せて」

言われるままに、携帯電話を瑞樹の手に渡すと、彼はちらりとそれを読んで首をかしげ、その直後には電源を切ってしまった。

「え。なんで切った?」

きょとんとして私が訊ねるのに、ぷいっとテレビに向き直りながら、「うるさいから」と瑞樹が低い声で答えたから、できることなら廣太郎を殴りに行きたいものだと思った。

よくわからない!廣太郎の考えることって!



…これが、廣太郎のいうところの、「good luck」というやつなんだろうか?



寝入る直前の心地よさの中で、柔らかな感触を、唇に受けてそう思った。


…キス……。


今日は額でも頬でもなく、唇に。

どうして?

喉まで出かかった言葉は、眠気と喜びと切なさで押し戻されていく。

もし、私がまた目を覚ましてそう問うなら、瑞樹はきっと「ごめん」と謝るのだろうから。


初めてだったのにな。


そう思うと、最終的には切なさが勝ったらしく、どのタイミングで泣いたのかはよく分からないけれど、朝目が覚めたときにも枕が湿っていて、目の周りや髪の毛は乾いた涙のせいか、かさかさした。

いつも通り、瑞樹が消えた朝の部屋の中、ずっと「わかりやすい人」だった瑞樹が、いつの間にか、完全に「よくわからない人」になっていることに、ようやく気がついた。




珍しく昼休みに電話がかかって来て、生物学科の研究棟の近くの学食で、廣太郎と待ち合わせた。

「どうだった?いいことあっただろ?」

それぞれが昼食を持って席に着くなり、廣太郎はそう切り出した。


「…キスされた」


「へえ」

ちょっと眉を持ち上げはしたものの、廣太郎の反応はそれだけだった。

「キス」

「うん」

「キスされた」

「聞いた」

「キス、初めてだったんだけど」

「へえ」

「キスだよ?」

何度も言うと、とうとう廣太郎は苦笑いを浮かべたけど、「わかったってば」と言うと、ラーメンをすすり始めたから諦めた。

高校時代から恋人のいるようなやつに言ったってわかるわけないか。

「何でぶすっとしてるわけ?」

「…いつもだよ」

よく言われたっけ、ぶすとか、ぶすっとしてるとか、ふてくされてるとか。

「いつものと違うな」

「いつものもあるのかよ」

失礼な発言が続くので突っ込んではみたものの、調子は上がらない。

「何か暗いってこと。何か不満でもあんのか?」

「不満だらけでしょ!」

私がため息をつくと、廣太郎はちょっと首をかしげて「どこがだよ」と言うのだから呆れた。


「なんでキスするのかわからない」

「ん、まあ、そうだろうな」

「それに、なんで寝たときなの?」

「後ろめたいんじゃね?」

「なんで私なの?」

「さあな」


そこまで一息に吐き出すと、昨晩からぐらぐらしたままだった私の気持ちは幾分落ち着いた。


「でもそれってさ、全部、不満っていうより疑問じゃねえの」

じいっと目の奥まで覗くようにして廣太郎が私を見ていて、はっとする。

「なんで、なんで、って言ってるけど、嫌だったって一言も言ってねえしな」

廣太郎がそう指摘した。

「お、珍しいな、赤くなって」

くすりと笑われて初めて、自分が赤面しているのだということに気がつく始末。顔がほてってるし、若干視界が潤んでいる。

うわ、確かに赤くなってそうだ。


「どんな理由でもいいだろ?好きな男がキスしてくれたんなら」
どきり。

胸が鳴って、昨日感じた瑞樹の唇の感触を、わずかに思い出す。夢の世界に転がり落ちる直前のそれは、あやふやだ。


「…廣太郎の恋愛観って、すごく単純にできてるね」

その記憶を振り払うようにそう言うと、廣太郎がふんと鼻を鳴らした。

「お前だって大差ねえよ」

「やだな、一緒にしないで」

「好きすぎて諦められないくせに」

「な」

「家に来るなって、一度も言ってねえんだろ」

「ちょ」

「…おもしれー、由澄季が赤くなるポイント。図星ってときか?」


最後には腹が立ってきたので、頭をはたいておいた。




「え、何してんの」

玄関先に現れた瑞樹は、きょとんとして私を見ている。

その顔があまりにもいつも通りで、ひそかに腹が立ったけれど、それを言葉や態度に表すわけにもいかず、私は鞄に荷物を押し込む作業に集中した。

「帰るの?」

「うん」

ちょうど夏休みに入って、研究室や図書館に行く用事もなくなったタイミングだったから、実家に帰ってもいいだろう。

そろそろ、犬や虫たちの顔も見て、エネルギーをチャージしなければならない。

「突然だな…」

ぽつりという瑞樹にどきりとしたけど、まさか「あんたがキスしたからでしょ」と言うわけにもいかない。

「瑞樹も一緒に来る?おばあちゃんたち喜ぶよ」

何気なさを装ってそう訊ねながら、私は瑞樹の表情をうかがった。彼がふっと浮かべた小さな笑みは、すぐに消えた。

「また、そのうちな」

穏やかだけど、その言葉は「今は帰らない」を言い換えたものだから。


「私も一緒に歩いてあげるから」

「はあ?」

「お金がないんだったら、歩こう。いや、自転車の方がいいかも。自転車で日本を一周する人もいるんだし、家までなら大した距離じゃないのかもしれない」

「俺はともかく、由澄季には無理だろ」

くすくす笑う瑞樹が、いつもと違って大人びて見えるけれど、それは私の胸をずきずきと痛めるだけだ。

「ばあちゃんと、おじさんとおばさんによろしく。みーこはいないだろうけどな」

瑞樹は、はっきりとは言わないだけで、私の提案を断っているのだ。

寂しいくせに、菜津希の代わりに私にキスしちゃうくらい寂しいくせに、なんで会いに行かないんだろう。

言葉にできない疑問は、胸に渦巻くばかりだ。

その疑問を抱えたままで、私は故郷へ向かう電車に乗り込んだ。


聞いてはいたのに、実際に目にすると、やはり「信じられない」という気持ちの方が先に湧き上がった。

目の前を、知らない男と腕を組みながら、菜津希が歩いている。

「信じられない」という気持ちが、次第に「信じたくない」という気持ちに変わって。

駅からの道を、大きな荷物を持って歩く私の足が、だんだん重くなってくるのは、もう気のせいじゃない。

一歩、歩くごとに。

瑞樹への同情が、菜津希への怒りに変わっていき、それはばあっと燃え広がっていくようだ。

男が菜津希の腕を離したかと思ったら、今度は腰に手をまわした。さすがにはねつけるかと思ったのに、菜津希が平然とした様子で歩いていくから、私は菜津希の浮気が真実であったことを、強い実感を持って認めたのだった。

家の前まで来た時には、菜津希がその男とキスするところまで見てしまった。

すっかり心は冷え固まってしまって、冷静に、その場面が終わるのを待っていた。

玄関から家に入っていく菜津希の上品で小さな唇は、夜目にも桜色に見えて、まさかさっきまで恋人でもない男の唇にくっついていたようには見えなかった。
瑞樹だって、菜津希とキスしたいかもしれないのに、と思った。頭の中に、菜津希とキスをしている瑞樹の姿まで、繰り返し浮かんでくる。


あれは、本当に私の妹だろうか?

確かに、美しい上に勉強も運動もよくできるという子だったから、本当は血が繋がってないんじゃないかと、学校でもよくからかわれたものだけど。

私自身がそう思うことはなかった。誰が何と言おうと、あれは私の可愛い妹だと思ってきたのに。

生意気だし、自分が一番でないと気が済まない、傲慢な子だけど、何をされてもこんなに腹が立ったことはなかった。

菜津希は、いつの間にか私にとって、全く理解不可能な女に変わってしまったのだ。そう思うしかない。


こんなことならば、瑞樹と同じように、東京に留まれば良かったのかもしれない。

菜津希が浮気をしているという事実は変わらないけれど、現場を目撃するという不運には見舞われずに済んだかもしれない。

話に聞いていただけの時とは怒りの度合いは桁違いで、私はそれを鎮めることができない。


握った両手が震えるのが止まるまで、私は寒い中、立ち尽くしていた。