由澄季は相変わらず、生き物の世話と、それに関係する本と、勉強が興味の対象だ。

それに引き換え、瑞樹はいかにも高校生らしいものを好んだ。友達づきあい、野球、そして、流行りのドラマ。

「瑞樹、口開いてる」

由澄季は冷めた目で、テレビの画面を見ながら、隣の席にいる瑞樹の口にパンを放り込んだ。

「う、うん」

もごもごと口を動かしているけれど、視線も意識もドラマのクライマックスに向けられていて、心ここにあらずの様子だ。

テレビ画面の中では、主人公である大学生の男が、長年思いを寄せていた後輩の女の子に、ようやくその思いを打ち明けている。

素直な瑞樹は、その主人公になったかのような気持ちになって、ドキドキしながらそのストーリーを楽しんでいる。

その一方で、冷静な由澄季は、とうに自分には全く縁のない話だと結論が出ている恋愛には興味がなく、自分で焼いた今日のパンの出来を確かめている。

発酵がうまくいかなかったんだろうか?ちょっとふくらみが悪い気がする、と考えながら、由澄季は、いつもと違って味の感想も言わないくらい集中している瑞樹をちらりと横目で見た。

とっくにパンを飲み下したはずなのに、ごくん、と喉を鳴らしている。

画面は、主人公と恋人のキスシーンの真っ最中だった。

この様子では、食べそうもないな。由澄季は、瑞樹の熱中具合に苦笑いしながら、パンの載った皿を片づけようと手を伸ばし、腰を浮かせた。


「……何よ」


皿を持った右手の手首をつかまれて、由澄季は眉をひそめた。

「食べたいの?」

そう問われて、ようやく瑞樹ははっと我に返った。思わず由澄季の手をつかんでいる自分に気がついて、慌てて手を離したけれど、そこに残るほっそりとした感触に、胸が疼いた。

由澄季の手首は、こんなに小さかっただろうか、と。

「いや、食べたいけど、そうじゃなくて」

由澄季は瑞樹のその言葉を聞いて、皿を目の前に戻してやって、再び座る。瑞樹が何か言葉を探している間は、いつもそうやって待つ。
「お前、キスしたことある?」

瑞樹が自分の目を探るように見つめていることに気がついて、由澄季はまた苦笑いを浮かべた。

「ない」

あるはずないだろう、学校でも男の子たちからは変な奴だとか、勉強しかしないとか言われてるのに、と思いながら。

「俺もない」

「そう」

あっさりと答えて、由澄季が会話を打ち切るから、瑞樹は慌てて言葉をつなぐ。

「だ、だからさ」

「うん」

「興味ない?」

「何に?」

「その…、キスに」

どうして瑞樹の歯切れが悪いのかわからず、由澄季は少し首をかしげながらも、こう答えた。

「ないけど、何?」
そう問い返すと、瑞樹ははあ、と息をついて、意を決したかのように由澄季に向き直った。

「何って、全然気にならない?なんで好きになったら、唇を合わせたいんだろうって思うだろ?」

「まあ、不思議には思う」

「あれって、気持ちいいのかな?どんな感触?」

「わからない」

「わからないこと、知りたくね?」

「…知りたいかも」

いつの間にか、由澄季の冷めていた目が、少し意思を持って、瑞樹の目を見つめ返していた。

「確かめる方法がある」

「どんな方法?」

「実験」

「実験…」

その言葉の響きに、完全に由澄季の目が覚醒して、興味を持っていることがわかって、瑞樹は思わず微笑んだ。

周りはあれこれ言うけれど、由澄季の反応や表情はとても素直だ、と思いながら。

「興味出てきた?」

「うん」

でも、そんな由澄季の素直さに、少しちくんと良心が痛むのを、気がつかないふりをして、瑞樹は最後の提案を口にする。


「俺としてみない?キス」


これがきっと菜津希だったら、「馬鹿じゃないの」って笑われるか、「あたしとキスしたいんだったらそう言ってみて」って挑発されるか、どちらにしたって自分の思うようにはならないだろうと瑞樹は思う。

でも、きっと、由澄季だったら。

「うん。してみる」

そう言って、すっと顎を持ち上げると、自分に身を寄せたから、瑞樹は不意にどきりとした。

するって答えるだろうとは思っていたけれど、そうやってすぐに行動に表すとまでは予想していなかったから。

「冗談だよ」って続けるつもりだった言葉をごくんと飲み下して、瑞樹が、由澄季の小さな唇に、自分の唇を寄せようとしたその時。


バン!


派手な音とともに、玄関のドアが開いて、「たっだいまぁ~」という菜津希の声が聞こえてきた。その後に、「これこれ、菜津希」とたしなめる祖母のハルの声も続いてきた。

はっとして体を離した瑞樹に、きょとんとした顔で、由澄季が言った。

「実験中断?」

瑞樹はもう、なんて答えたらいいのかわからなかった。「また、今度」とかなんとかもごもご言いながら、どうしようもなくて目の前のパンを口に押し込んだのだった。