来るべき時が来た。ただそれだけのことだ。

何度もそうやって、自分に言い聞かせるように考えているのに、胸の細胞が一つ一つ潰れて消えていくようなこの痛みはなんだ。


「ね、瑞樹の大学見てみたいんだけど」


この数カ月ですっかり見慣れたはずの、わたしの下宿先、そのダイニングの空気が、いつもと全く違う。

なんか、キラキラ度がアップしてるな、菜津希。そう、我が妹、菜津希がいることによって、私の部屋の空気が一変しているのだ。

世間一般の学生は皆、夏休みに入った。高校2年生の菜津希も、所属する吹奏楽部の活動が盆休みになった今日からは、学校に行かなくてもいいらしい。

だからって、その日のうちに、東京まで来るか?

「聞いてんの、瑞樹」

テーブルの下で、足でも蹴られたんだろう、「いてっ」とか瑞樹が言ってる。

「聞いてますけど。俺の大学狭くてつまんねえから、由澄季の大学見に行こうか」

ようやく口を開いたと思ったら、道理の通らないことを言うので、私は菜津希と顔を見合わせてしまった。


「いや…勘弁してほしい」


我ながら、苦しそうな声になったと思うけど、それが本音だ。いろんな意味で。

こうして、瑞樹の向かい側に座っているのは、いつも通りのことだけれど、彼の隣に菜津希の姿があることが久しぶりで。

その存在のまばゆさに、私は本当に息が苦しくなる。

「ははっ。お姉ちゃんには振られちゃったから、諦めな。ほら、案内してよ」

菜津希が強引に、瑞樹の腕を引く。

「ええ…。お前目立つし嫌だ」

それは、ごく当たり前の行為で。菜津希の、大抵はクールな表情もどこか柔らかくて。瑞樹もなんだか気恥かしそうな表情で。

「いいじゃない。自慢しなよ、女子高生と付き合ってるって」

「あほか」

「あほなのは瑞樹でしょ」

相変わらず、瑞樹は菜津希にいじめられても大人しくしていて。菜津希だって、瑞樹にそんな言葉を浴びせる根底には、「好きな子には意地悪しちゃう悪ガキ」的な愛情を持ってるのだということは、私の目にだって明らかで。


…早く、私の目の前から消えて欲しい。


私の心の中にある願いは、今はそのひとつきりだった。



だから、ふたりがドアの外に消えて、がちゃんと力を込めて鍵をかけたときには、ほうっと重いため息が漏れた。

お母さんのばか。

…と、思う。別に、瑞樹と菜津希がつき合っていることに関して、母親に八つ当たりしているわけではない。
菜津希が休みの内に東京に遊びに来ると聞いた時の電話でのことだ。

「頼むから、菜津希を監視しておいてね」

電話口で、お母さんがこしょこしょとそんなことを言うから、思わず「はあ?」と訊き返していた。

「だーかーら、菜津希を見ててってこと」

「あー、夜遊びとかしないように?無理無理、私早く寝ちゃうから、わからないよ」

放っておくと朝まで帰って来ない菜津希に、両親がやきもきしているのを何年も見ているけれど。

「そ、それもそうなんだけど、その、あのね」

いつもは丁寧に淀みなく話す母が少し迷った様子なのが、私の気を引いた、その瞬間。

「瑞樹くんの家に泊まったりしないように、監視して欲しいの」

はあ?という声すら出てこなくなった。

「ほら、その、ふたりが想い合ってるのは構わないんだよ。素敵なことだと思う。でもね、結婚とかする前にその、家に泊まるのはどうかと、お母さんは考えてる。古いかな?」

なんて、純粋な人なんだろう、と感心じゃなくて憐憫からそう思った。

「ね、どう思う?由澄季は、お姉ちゃんとして」

すんでのところで、「古いって言うか、遅いと思うよ」と言いそうになって、文字通り自分の口を塞いだ。

「菜津希にもよく言っておいたけれど、心配なの。ちゃんと由澄季の家に泊まったかどうか、お母さんに教えてくれない?お父さんとお母さんは、菜津希がそっちに遊びに行くときや、進学するときのことまで考えて、部屋が二つあるマンションを借りたんだからね」

そんな策略の中で、ちょっと広い家に浮かれていたのかと思うと、自分が残念になった。

「うん」

よくわからない返事をしたにもかかわらず、なぜかお母さんの意見を肯定したことになったらしく、彼女が「よかった」と呟く声を、電話越しに聞いたのだった。


私の部屋に、菜津希を泊める必要なんて、全くない。

菜津希は瑞樹の部屋に泊まりたいだろうし、瑞樹も異論はないだろうし、それになにより、私の精神衛生上よろしくない。

今日だって、ただ瑞樹の大学のキャンパス内をうろうろして、帰ってくるだけとは思えない。


ときどき、瑞樹の首元にあるあざの位置が、変わったり消えたりすると思っていたら、それがキスマークって呼ばれるものだと言うことを、テレビで知った。


「結婚する前にその」と、お母さんが言い淀んでいたことを、とっくに菜津希は通り過ぎた後だと思う。


この数カ月見なくて済んだあの印を、鮮やかにつけた瑞樹の姿を見るのは、今の私にはちょっとキツい気がする。



その日の夜、私が眠ってから、一応菜津希は戻ってきたらしくて、玄関には真っ赤なミュールが転がっていた。

かわいいデザインと色だと、私ですら思うけれど、私のマンションの玄関にあるのが変だ。菜津希の華奢で白い足にはよく映えるだろうが。



はあ。何度目かわからないため息を吐いたころ、珍しく電話が鳴った。

「はい」

登録してない番号からだったので、不思議に思いながら出てみると、専攻学科の教授だった。話したこともない人だ。

「ニューヨークへ短期留学に行ってくれないか。予定していた学生が、転んで骨折したんだよ。費用は研究室で持つから。急だけれど、あさって出発して欲しい」

前置きなくそうまくしたてられたけれど、私の腹は、その話の途中ですでに決まっていた。

「はい。行かせてください」


ここじゃないどこかへ行けるなら。そうだ、菜津希を追い出す前に、私が出ていけばいいんだ。

まさに棚からぼた餅。留学費用のこと以上に、菜津希と瑞樹を見なくて済むことがぼた餅だ。

だいたい、私は海外の言語にも文化にも興味が薄い。留学なんて、頼まれでもしない限り行かないと思う。

その日は瑞樹の方に、大学の友達と会う用事があったみたいだ。私は、菜津希の買い物に付き合ったり、一緒に外食をしたりするうちに日が暮れた。



そしてその翌日、家に来た瑞樹の首には、やっぱり、新しい痕跡があった。赤くて、なんだか禍々しい。


まっすぐの姿勢なら見えない位置だけど、屈んだりすると微かに見える。いつも同じくらいの位置だから、無意識のうちに目で探している自分に辟易した。

見つけて胸を痛めるくらいなら、探さなきゃいいのに。
「由澄季、腹減った」

縋るように見て来る瑞樹の視線すら、私の神経をイライラさせる。ごはんなんて、とてもじゃないけど作れそうにない。

「今日、お姉さんは忙しいの。ふたりで外食しておいで」

瑞樹や菜津希にとんでもないことを言ったりしたりしないようにと祈りながら、ふたりを追い出す。

「えー、勉強かよ、盆休みまで」

瑞樹がぶつぶつ言っているけど。「なんでもいいから、早く出て行け」と思いながら、冷たい目で見返してみる。

ぶー、と、ふくれっ面のままで、瑞樹が菜津希と一緒に出て行った。


それきり、二人に会わずに済んだ。

夜遅く菜津希が帰ってきて、次の朝早くに私はマンションを、ついでに日本まで脱出したのだ。


留学期間は、10日間だ。

英会話を身につけようと思う学生なら、短い時間だと思うけれど、私には十分な時間だ。とにかく、菜津希といる瑞樹の姿を見ずに済めばいいのだから。

そんな不純な動機でばちでも当たったのか、留学先のニューヨークに着いた初日に、眼鏡を落としてしまって、不便を被ることになった。

眼鏡のレンズが割れてしまったのだ。さすがに使い物にならない。

「コンタクトにするといい。よく似合うと思う」

ホームステイ先の、3つくらい年上の男の子(なかなか名前が覚えられない。興味がないから)が、そう言ってしつこかった。仕舞には、「ニューヨークには眼鏡屋がない」と言い張るので、諦めてコンタクトレンズを買いに行ったのが、最初の買い物になってしまった。


「ユズキ、とってもかわいいよ」

…外国の人は、本当に歯の浮くようなセリフを、よく言うらしい。

「もう寝るの?おやすみ、ユズキ。また明日」

…何かと抱きしめて、頬にキスをしてくる。


べたべたする民族だなぁ。

初めはびっくりして飛びのいてしまったけれど、ママさんもパパさんも皆同じように接してくるので、お国柄だと言うことがわかったら、すっかり慣れた。

英語での会話にも、正直、苦労しなかった。

初めから、相手の言いたいことはおおまかにはわかったし、私も言いたいことはおおまかには伝えられたから。


赤身の大きなステーキを食べたり、やたらと甘いお菓子を食べたり、ホームステイ先のママさんに料理を教わったりする時間が、一番楽しかった。

これって、私にも作れるのかな?瑞樹が好きそうだな。

美味しいものを食べると、毎度毎度、そう思う。我ながら重症だなあってことを自覚した。

緯度も経度も、ずいぶん離れた場所で、菜津希といるときの彼の顔を見たくないがために、こんなところまで来たくせに、結局彼のことを考えているのだから。



「寂しくなるよ、ユズキ」

帰国の前日、ホームステイ先の3歳くらい年上の男の子(結局すぐに名前を忘れる毎日だった)が、そう言って大げさにひしと私を抱きしめたから、苦笑した。

「まだ一緒にいたいのに」
この国の人は大げさだなぁ、なんて思っていたから、状況を理解するのが少し遅れた。金髪の彼は、顔を傾けて、異常なくらい私に近づいていた。


「だめ!!」


金髪の彼がはっとしたときには、自分でもびっくりするくらい、大きな声が出ていた。

「日本に好きな人がいるから」

早口でそう付け足した自分の声は、打って変わって弱々しくて、震えていた。

好きな人がいると言うことを、私が打ち明けたのは廣太郎だけだ。莉子も知っているだろうけど、私から直接、彼女に瑞樹の話をしたことはない。

秘めている気持ちを口に出すのは、それだけでなんだか怖い。

「ごめん。特定のボーイフレンドはいないんだと思ってた」

金髪の彼がそう言って、申し訳なさそうな顔をする。それを聞いて、私も申し訳ない気持ちになってくる。
だって、私には特定のボーイフレンドがいるわけじゃない。好きになってはいけない相手を諦められずにひそかに想っているだけだ。

彼氏がいないなら、拒否するのは変なのかな。よくわからないけど、なんだか、とにかく、彼とキスするのは違うって思う。

キスかぁ。どんなふうなのかな?好奇心はあるんだけど。



そんなことを考えながら、空港に降り立った私の頭は、金髪くんとキスしかけた衝撃と時差ぼけですっかり朦朧としていた。

大体、睡眠不足にはめっぽう弱いのだから。

「ひっ」

横から急に腕を掴まれて、変に空気を吸い込んだ。


「しっかりしろよ、まっすぐ歩け、由澄季」


どきん。勝手に胸が跳ねる。
「何してんの、こんなとこで。菜津希は飛行機乗らないでしょ」

飛行機に乗るほど、私たちの故郷は遠くない。移動手段としては、電車で十分の場所だ。大体、菜津希がいつ故郷に帰るのかもちゃんと聞いてなかったけど。


とにかく、「どうして、瑞樹がこんなところにいるんだろう」って思う。

「お前こそ何してんの。留学するなんて聞いてないし」

唇をとがらせながら、瑞樹がそう言う。そりゃあまあ、言ってないしね。

「行き先もスケジュールも、菜津希に置き手紙していったんだけど。急な話だったんだよ」

どうせ菜津希から聞いただろうに。

「それは見たけど。それに、眼鏡!コンタクトにしないって約束だっただろ?」

ちょっと怖い顔で、瑞樹が私の目を覗きこんでくるのに、その顔にさえ胸がうずうずする。不便な体になってしまったものだと思う。

「向こうに着いた日に割れちゃったんだもん。眼鏡屋はないって言われたし。家に帰ったら予備の眼鏡があるから大丈夫」

私がそう言うと、瑞樹はようやく険しい顔を緩めて、私の腕を掴んでいた手を離した。

…なんか名残惜しいけど。
「じゃあ、早く帰ろう」

そしてごく自然に荷物を持って、歩き出す。

嬉しいけど。助かるけど。いつもそうやって、菜津希を気遣ってるから、自然に動けるの?女の子は皆、そんなふうに大事にしてるの?

小悪魔的美しさを持つ菜津希を彼女に、男女を問わず多くの友人に、とにかく人間関係が賑やかで恵まれている瑞樹だから、それでもちっともおかしくないのだけど。

それを、ちょっとした仕草から、連想してぐちゃぐちゃ考えている私は、そんな資格もないくせにヤキモチとやらを焼いているのだろうか。