玲は煙草の煙が豊の方にいかないように、顔を背け、ふぅーっと長く吹く。

玲の左手薬指に指輪はない。
いつも豊と逢う時には外していた。




ここ三ヶ月で、変わったこと。


豊が帰る時間を気にするようになったこと。
時間は、その時々による。


逢う場所が、葉山のモーテルになったこと。
前は、豊の築20年の2Kのアパートだった。


『職業柄、女のダークな部分を知り過ぎてしまったから結婚はしない』


そう言っていた看護師の豊が33歳にして、あっさり結婚したのは、三ヶ月前のことだ。


一応、玲は『おめでとう』と言った。


『別に。親がうるせえから。玲の方が全然いい』
豊はつまらなそうに言った。

奥さん、看護師なの?
玲は、豊の新妻についてそれだけ聞き、

豊は、違う普通の人、
と答えた。


豊がいうには、どうしても断れない縁談だったという。

玲は吹いた。

煙草の灰がへんなところに落ちそうになった。

昭和初期みたいといって笑った。

豊は
『うるせーなあ…』とニヤつきながら、玲の手元から煙草を奪いとり、咥えた。


結婚したくせに、今も豊の左手薬指には、何もなかった。




「シャワーを浴びなくていいの?
もう6時過ぎたよ」

玲は、のんびりしすぎている豊に言ってやる。

「あ、そうだ。浴びてこよう」

豊はベッドから勢いよく降り、落ちていたバスタオルを拾ってバスルームに消える。

もう、玲もおいで、とは言わない。

豊はチェックアウトするまでに、必ずシャワーを浴びて玲の痕跡を消すようになった。

男の全裸の後ろ姿を見ながら、少ししらけている自分に玲は気付いていた。

しかし、どうすることもできない。


すでに、豊は玲の人生の一部だった。


豊が結婚してからも、月一回逢うペースは変わらなかった。





豊とは、玲の働くティーラウンジで知り合った。

一昨年の秋のことだ。

南沢玲はウエイトレスとしてパートを始めて二週間目だった。


駅に隣接する外資系ホテルの二階にあるラウンジで、立っていた玲のもとに、若い男がつかつかと近づいてきた。

茶髪で濃い紫色のフレームの眼鏡を掛けた小柄な男だった。


『…すいません、突然』

男は、鼻を掻きながら上目遣いで言った。

『はい』

玲は口角をあげ、営業スマイルを浮かべた。

『申し訳ないんですけど、絶対迷惑かけないんで、あなたの名前とメアド、教えて貰えませんか?』

『えっ?』

玲は、唖然とした。

男は、こっそりと小さく、奥の窓際に座っている女性5人グループを指差した。

三十歳前後と思しき女たちは、玲たちのほうをみて、クスクスと笑っていた。

『あの人たちと賭けしてるんだ。
アドレス教えて貰えるかどうか。負けると罰金1万円なんだよ。協力して。』

男は小声で言い、片手で拝む真似をし、懇願する目で玲を見詰めた。


くるり、と玲は辺りを見渡した。

平日の水曜日、クローズ間際のラウンジは客はまばらだった。

うるさい黒服の支配人は、帰る客の後を追ってキャッシャーに入っていった。

同僚は、うわの空で手だけ動かし、空いたテーブルの食器を片付けていた。

誰の目もなかった。