そんなこと露知らず、由理阿は返事に窮していた。
「------目がいいからでしょうかね。両目とも裸眼で1.5なんですけど------」
 そう言った後で、視力がいいといっても、暗闇の中で見えた説明にはなっていないことに気づいた。由理阿自身どうして見えたのかわからなかった。
 警官が疲れた表情で部屋に入ってきた。
「あの――、女の人だったんですか?」
 由理阿は、視界に入ってきたビニール袋から目を逸らし、遠慮がちに聞いた。
「そうっすよ。名前は------、確か綾瀬樹里っていったかなあ? この駅の反対側のワンルームマンションで一人暮らししてたんっすけど、さすが渋谷のアパレルショップ勤務だけのことはあって、着る物や身に付ける物が違ってたっすよ。アパレルショップといっても、駅直結のデパート内でね------」
「えっ、ずいぶん詳しいんですね」
 言葉が口を突いて出た。
「いや、その、何度か相談受けたもので------」
 警官は語尾を濁した。
 由理阿はどんな相談か興味をそそられたが、それを察したのか、警官は話題を変えてきた。
「それにしても、急行だから、結構スピード出てたんでしょうね。ここまで飛んでくるなんて。新幹線なんかだと一瞬にして跡形もなく粉砕されちゃうそうっすけどね------。そう言えば、この間、京都駅でのぞみに飛び込んで軽症で済んだ奴がいましたよね。あれって奇跡的っすよね」
「あの――」
 そう言い掛けると、警官が返答し始めた。
「ああ、『此れにて一件落着』っすよ。もうこの件は自殺ということで片付いてますから。実は、目撃者もいたそうなんっすよ。ただ、あっという間の出来事で、助けようにも助けられなかったそうっすけどね。そりゃそうっすよね。遮断機が下りていて、いつ電車が来てもおかしくないって時に、入っていったりしたら、自分まで轢かれてしまうかもしれないっすからね」
「いいえ、そういうことじゃなくて、わたしがお聞きしたかったのは、自殺の動機なんでっすけど------」
 どうしてもこれだけは聞かずにはいられなかった。
「あっ、そのこと。本件は踏切の現場検証と目撃証言から自殺と断定されましたので、それ以上のことは------」
 警官は返事に窮した。
 由理阿には何かを隠しているように思えた。
「あっ、それから、今度、巡回連絡カードに記入してもらいますが、これが、事故や災害等の非常時に役に立つんっすよ。今日はとりあえず、名前と住所と電話番号、ここに書いてもらえますか?」
 手帳を差し出しながら事務的な口調で言う。
 由理阿は言われるままに書き込む。
「はい、結構です。あっ、それで、職業は?」
「学生です」
 そこで警官はふと顔を上げ、怪訝そうに目を細める。
 普通の女子大生には見えないのかなあ? キャンギャルって言ったほうが信憑性があったのかなあ?
 そんなことを考えていると、すーっと白い手袋の手が伸びてきた。
「また何かありましたら、交番の方に連絡ください。緊急時にはこの電話番号まで。最近はストーカーも多いので、気をつけてください。それでは失礼します」
 警官にも名刺があったんだ。生まれて初めて警官から名刺をもらって、ドキドキした。
「御協力有難うございました」
 警官は、靴を履いて振り返ると、ビニール袋をさげてそそくさと出ていった。
 すると、これまで抑えられていた感情が、洪水のように溢れ出した。自分の気持ちじゃないとわかってはいても、激流に逆らうことなどできなかった。誰のものともわからない無念さに包まれ、どうしようもなく悲しくて苦しくて、テーブルにうつぶせになると、涙が自然と溢れ出た。
 足首を強くつかまれた時の衝撃が甦っていた。もう二度と起き上がれない苦しみを訴えていたのだとしたら、その思いは、つかんだ強さで痛いほど伝わってきた。
 涙も枯れ、幾分か落ち着いた頃、ふとある疑問が湧いた。もしあの感情が死んだ女のものだとしたら、どうして孤独感や絶望感が伝わってこなかったのか? 自分の命を自分で絶とうとする時、人はそういう感情を抱くものじゃないのだろうか?
 やはりあれは自殺じゃなかったのかもしれない。踏切で頭の中に湧き上がった疑問が捨て切れない。警官の態度もどことなく怪しかった。事前に何度か相談を受けていたのだから、何か思い当たる節があってもおかしくない。何か大事なことを隠しているような気がしてならない。由理阿には一件落着とは言い難かった。

 早朝に一度シャワーを浴びていたが、長時間に渡って灼熱の太陽に焙られ、男たちのいやらしい視線にさらされた体が、汚らわしい物のように思えて、由理阿は風呂に入ることにした。のんびり湯に浸かれば、気分が晴れるような気がした。
 浴槽から溢れるほどに張った湯に入浴剤を入れると、ぷーんと硫黄の匂いが広がった。
 思わずキャミソールワンピースを脱ぎ捨て、熱めの湯に全身を浸す。顔まで浸かると、硫黄の香りといい、水面に浮いている湯の花といい、浴室の中に漂う湯気といい、本物の温泉に入っているような気分になってきた。
 目を閉じ、手足を伸ばし、スピーカーから流れてくる癒し系音楽に身を任せ、心を無にするように努める。スピーカーが防水仕様だから、天井からポタポタ落ちてくる水滴も気にならない。
 川のせせらぎ、鳥のさえずりなどの心地よい自然音とともに、フルートのやさしい音色が響き、ピアノやシンセサイザーの多彩な音色がゆらゆら揺れるように奏でられる。いつの間にか、魂が、体を抜け出てふらふら空中を彷徨っているようで、残された体は、湯の中に溶け込んでいくようだ。
 湯船の中で眠り込んでしまう前に、かろうじて立ち上がり、浴室を出た。
 白いタオル一枚で冷たい水を飲んでいると、体全体が硫黄の匂いに包まれていた。そして、部屋中に硫黄の香りが漂っているような気がした。
 日課となっている風呂上がりのパジャマ姿での筋トレも欠かさなかった。腹筋100回、腕立て伏せ50回どうにかやり終えたら、気分がすっきりした。そして、忘れ掛けていた食欲が湧いてきた。
 冷えた豆乳を片手に冷蔵庫の中を覗き込む。有り合わせの材料で作れる料理を考える。
 スパゲッティを茹で始め、フライパンにオリーブオイルを敷き、ガーリックプレスでつぶしたニンニクを入れ、弱火でじっくり熱する。いい香りがしてきたところで、フードチョッパーで細かく切ったキャベツを加えて炒め、茹で上がったスパゲッティを加えて混ぜる。仕上げに塩とブラックペッパーで味を整えて出来上がり。
 暗闇に包まれたベランダで、懐中電灯で照らされた肉塊が視界に入ってきた時の戦慄が甦り、挽き肉を入れる気にはなれなかった。
 夕食を食べ終わるか終わらないうちに、凄まじい勢いで睡魔が襲ってきた。インターネットを寝る前の日課にしているのに、パソコンを付けることもなく歯を磨き始める。
 明日は仕事は入ってないし、大学の講義も午後からだから、遅くまで寝られる。昨日から色々な事があったなあ。もうくったくただよ。明日からまたこれまで通りの平穏な日々が戻ってきますように。
 そんなことを思いながら由理阿は床に就いた。