水底の鏡。
そう真名で呼ばれては、応えない訳にはいかない。
『……来てやったぞ。まったく、面倒な!』
カツカツと軽快な足音を響かせて、一角の君はその場で一回りした。
私たちを背に庇うように立つ。豊かで長い尾を左右に打ち振っているのが見える。
一角の先をスレン様へと向けているのが分かった。
『あれあれぇ? 僕よりも格下の分際で歯向かうつもり?』
一角の君は少々たじろいだようだったが、すぐに身構えた。
間に入ったのはリディアンナ様だ。
『スイレイン・ボルドナ。貴方の相手はわたくしよ』
『嫌だ。どうせ……なんだ』
『え?』
『どうせ敵うわけがないんだ。だったら最後の最後まで悪あがきぐらいさせてくれ!』
スレン様の背後もそれに応えるように大きく膨れ上がり、ざわめき出した。
『水底……一角の。見ての通りの状況だ。その足をお借りしたい』
仮面のレオナル様は一角の君に頼んだ。
私も同じように、彼の腕の中で一角の君を見つめる。
視線が絡んでから外され、また戻される。
小さく足踏みしながら、一角の君は大きく息を吐きだした。
『おのれ。忌々しい事、この上ないが、致し方ない!!』
彼の君は大きく首を持ち上げ、一角で空を切った。
『乗れ!』
『恩に切る!』
レオナル様に抱き上げられ、二人その身に跨った。
『突っ切るぞ、掴まれ!!』
途中、何度か壁伝いに伸びてきた影が、レオナル様のマントを引っかいた。
捕まるたびにレオナル様が剣で払う。
マントだけでは済まず、彼の腕にもその鍵爪が食い込むのには生きた心地がしなかった。
所々、服が破れ血が滲み出している。
一角の君も同じだった。後足を取られては、蹴り離し、その度に血が飛び散る。
『ごめ、ごめん、なさい』
恐ろしかった。
何もできないでいる自分が情けなく、二人が心配な余り声が震えた。
レオナル様の腕がよりいっそう強く食い込む。まるで、大丈夫だと言ってくれているように。
『気に病まずとも良い、エイメ! ええい、切りがない! シュディマライ・ヤ・エルマ。貴様の名を使え!』
レオナル様は頷くと、何やら命じた。
風に――。
疾風まとう暗闇の名に基づいて。
風が強く吹く。
追い風だ。
レオナル様のマントが大きく風をはらんだ。
私のベールもひるがえる。
一角の君は走り出した。
先程よりももっと早く、早く。
呼吸さえもおぼつかなくなるほどの風を感じながら、必死で掴まる。
レオナル様も同じように一角の君のたてがみを掴んだ。
その腕の中に私を抱き込むようにして。
騒ぎを聞き付けて集まった騎士達を軽々と跳び越す。
それよりも、影となって伸びてくる闇から逃れるために。
捕まってはならない。
二度と。
自分たちだけのためではない。
スレン様とリディアンナ様のためにも。