床に耳をつけていなければ聞き逃したかもしれない。
だが、確実なものだった。
『そこまでで、です』
コツ、コツ、と慎重な足運びが近づいてくる。
床に伏しているせいで思うように見ることは出来ない。
それでも奴が怯んだのは伝わってくる。
『ロゼリット。神官長まで……何のつもり?』
忌々しい。そう舌打ちしそうな響きには、たじろきも含まれている。
その証拠に、渾身の力を込めても動かなかった指先が、ほんの少しだけ持ち上げる事が出来た。
目に見えない圧迫の大元が絶たれたと知る。
それはカルヴィナも一緒なのだろう。
スレンの腕から飛び出すと、俺に駆け寄って来てくれた。
その腕を掴むために必死で腕を持ち上げる。驚いた事に直ぐ様、すくい上げられた。
傍らにうずくまるようにして、俺の腕にすがる身体が震えている。
よほど恐ろしい思いをしたに違いない。
もう大丈夫だと言ってやりたいが、思うように言葉が出てこなかった。
『カ、ル……ぐっ、ゲホ……っ!』
声をふりしぼるが出てきたのは咳きと、血反吐だった。
『レオナル様! レオナル様!』
慌てたように首を横に振るカルヴィナの手が、俺を労わるように背をさすり、腕を抱える。
何てザマだ。
奴は俺にかすりもしなかったというのに、いとも容易く俺を痛めつけた。
それでも立ち上がるべく全身に力を込めた。
俺は今、シュディマライ・ヤ・エルマの化身だ。
半身なくしてはただのケダモノ。
だが――。
真白き光が傍らにあるなら、我は森の真の神。
うかがいしれぬ者( ス レ ン )に打ち負かされる事は無い。
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『スレン。わたくしは、わたくしたちは、この者を真の巫女王候補として推薦します』
凛と響いた声は、剣術大会の時に見た幼女のものだった。
足音はない。
そっと闇を滑るように進む。
その手に引かれて一緒に歩み出るのは、か細い少女の姿だった。
小さな靴音に続く、それよりも少しばかり重い足音は神官長のものだ。
じいさんもまた、少女の手を引いている。
彼女も美しい装束に身を包み、髪には花を差し、ベールのかずきを被っている。
ゆっくりと進む新たな巫女王候補――花嫁にスレンは明らかにひるんでいた。
『ロゼリット! 神官長!』
たまらず怒鳴ったスレンに、ロゼリットと呼ばれた幼女は微笑み掛ける。
そしてそのまま背を向けると、自身だけ闇に戻っていった。
何も語らず、静かな淡い微笑みだけを残して。