この深い森の、そのまた奥深く。

 人の子では到底、踏み入る事が許されぬ森の奥地に住まう獣がおりました。

 いつしか、そこは聖域と呼ばれ、獣は森の主と呼ばれるようになりました。

 とうの獣は、そう自分を崇め始めた生き物を不思議な気持ちで眺めておりました。
 その中でごく稀に、自分の声を聞く事が出来る者に出会いました。

 年若い娘です。

 娘は自分は巫女なのだ、こうやって貴方様のお言葉を聞いて、皆に伝える役目なのだと申してきました。


『何かご所望のものはございませんか?』

 ――何でもよいのか?

『はい』

 ――ならば。おまえが我の側に居る事を望む。

 そうして獣は娘を森の奥深くへと、さらってしまいました。

 今までさらっていた家畜や子供の代わりに。

 すると、どうでしょう。

 獣は子供や家畜をさらう事を忘れました。

 代わりに、花や果物や木の実をとる事を覚えました。

 そうすれば娘はとびっきりの笑顔を見せてくれます。


 それでも時折り、娘は残してきた家族や仲間を思って泣く事もありました。

 娘が自分以外を想って泣く事に、獣は胸を痛めました。

 ですが、娘を帰してやる気がどうしても起きません。


 やがて……。

 やがて。

 獣は初めて知りました。

 娘と自分とでは、流れる時間の長さが大きく違うという事に。

 それでも――。

 ただ娘の側に居られれば、獣は満足でした。

 優しい眼差しと、毛並を梳いてくれる指先は、ずうっとずうっと変わりませんでしたから。

 それでも訪れた日。

 娘ともう過ごせなくなるという、最期の日。


 さようなら、ありがとうと告げる娘の御魂に、獣は縋りつきました。


『どうか、どうか。行かないでおくれ。ずっと側に居ておくれ』


『あなた様がそれほどまでに望んで下さるのならば、また生まれ変わったら、必ずあなた様のお側に参りましょう』


 そう約束してくれた娘は、森の白き女神の樹に宿りました。


 幾度でも生まれ変わり、獣の前に現れる事を誓った魂を、獣は今も森の奥深くで待ち侘びているそうです。



 永遠を誓い合った絆にあやかりたいと、現世(うつしよ)に身を現す男女の願いも込めて。



 深い森の、遠い昔の、あったかもしれない物語。