「!?」


 身構える暇も無かった。

 そのまま、湖底から足を引き摺られてしまう。


 すぐさまカルヴィナから手を離した。


 巻き込まないために。


 夜闇をそのまま溶かしこんだかのような水中で、先程の満月にも似た輝きがこちらを見据えている。
 

 獣だ。

 もがきながらも、胸に忍ばせた剣を探る。

 
 ――それも、己の吐く息が泡となってかき消した。



 何やら女のすすり泣きに混じって、怒りの声が聞こえる。


 ――カルヴィナ?


『もう! 知りません。これからは貴方様と会ったりなんてしません! 絶交です』


 それに対する声は、おおいに焦っていた。


『ど、どうかそのような事を言わないでおくれ。そなたには、我が花嫁になってもらおうと思っているのだから』


『お断りいたします。これから先、二度とお会い致しません』


『そやつが悪いのではないか。そやつが。だから、懲らしめてやったまで』

『だからといって、水中に引きずり込むなんて! 地主様が死……!』

 やり過ぎです!

 と、泣きながら糾弾しているのは、カルヴィナで間違いないようだ。

 ぼんやりとした意識が浮上しだす。


『だから、こうしてちゃんと陸に上げてやったろう? 我のちからで、そなたら二人の身を乾かしてやったではないか』


 確かに、衣服に何の湿り気を感じなかった。


 そっと薄目を明けてみやれば、先程の一角持ちの獣がいた。

 落ち着き無く、蹄の前脚を交互に踏み鳴らしている。


 カルヴィナは泣き止まない。

 獣の足踏みも止まらない。

 どうやら、俺を湖底に引きずり込んだ事で、カルヴィナの怒りを買ったらしい。


『どうか怒りを鎮めておくれ。我が花嫁(シャル・メイユ)』


『その名前で呼ばないで。貴方の真名をまた呼びますよ?』


『うぬ……。』


 カルヴィナは追い詰められると、普段の大人しさはどこへやら。


 こちらが思いがけない勢いで抗ってくる。


 獣は俺よりも長い付き合いの割りに、知らなかったようだ。


 完全にのまれて、狼狽している。


 いい気味だと思う。


 心地良い柔らかさに包まれているのは、カルヴィナの胸元に抱きかかえられているから。


 ただし俺が気を失っている間に、しっかりと衣服を着込んだらしい。


 それを残念に思っている自分がいる。



『ところで。その寝たふりをしている地主とやら。いい加減にせぬか!!』


 カルヴィナは驚いて手を離し、立ち上がろうとしたらしい。

 狸寝入りは認めよう。

 だが、そう簡単に体を動かせるほど回復してはいない。


 我ながら重そうな音がした。

 カルヴィナの膝から落とされたのだ。

 しかも結構な勢いをつけて。


『ふん。頑丈な奴め。どうだ、頭は冷えただろう! 我が花嫁に無体を働くと、それに相応しい罰が待つと心得よ』


 カルヴィナからは、無言で拳をお見舞いされた。