隻眼の男が協力者の男相手に策を弄していたちょうどその頃、別室ではリゼとゼルが随分神妙な面持ちで顔を突き合わせていた。
「……じゃあ全部手遅れだったってェのかよ?」
「まあ、有り体に言えばそういうことですね」
 小さな溜め息と共に肯定したリゼは顔の上部を覆っていた石膏の仮面をスタンドテーブルに置く代わりに銀の盃を手に取り、水を注いだ。
 石膏の仮面は、このオークション会場内を歩くときに着用を義務付けられている物の一つである。
「まったく冗談ではないですよ。この私が袖の下まで持って挨拶に行ったというのに、あの物言い……! 名家と言ったって二代目以降は、たいして才も無い凡人家系が偉そうに……! まあ、腹に据えかねたので注進してさしあげましたけども。ああ、あの時のあの男の顔といったら……! それはそれは青ざめて……ふふ」
 今回の目的であった書物を手に入れるべく下げたくもない頭を下げに行ったリゼは、よほど気に喰わないことを言われでもしたのか、水を上品に飲みながら愚痴を零し、最終的には不気味に笑った。
 着用義務その二である足首までの黒い外套も相俟って、その姿はまるで悪魔か吸血鬼だ。
 男がリゼに何を言い、リゼが男に何を言ったのか想像もつかないが、これは聞いてはいけないことだと察したゼルは聞き流す。
 ここ数ヶ月で空気を読むことだけは随分うまくなった気がする。
「あー……まァ、それはそうと、結局……」
 エナが今どういう状況だったのかを聞くために話を振ろうとした瞬間、リゼの普段は優しげに細められている目がかっと見開かれた。
「それはそうと! それはそうと、ですって!? 私はね、侮辱されたんですよ!? 能無しの盆暗に! 貴方が犬に吠えられたり毛虫に踏まれるのとは比べ物にならない屈辱なんですよ!?」
 つい謝りそうになるくらいのその形相と勢いで彼の立腹の程が伝わるというものだが、何やらどさくさに紛れて馬鹿にされたように思うのは気のせいだろうか。
 空気を読んだところでどうせ爆撃されるくらいなら空気なんか読むんじゃなかったと思いながらゼルは頭を掻いた。
「毛虫に踏まれるて……」
 毛虫に踏まれる――這われる、ではないことにゼルは気付かない――ことが果たして屈辱かどうかはともかく、どうやらリゼはいたくお冠であるらしい。
 こういう時に逆らって良かった試しが無い。