今日はよくこける日だ。
 自ら動くとは、そういうことなのかもしれない。
 予期していなかった障害物に鼻を抑えながら目を向けた少年はものの見事に凍りついた。
 障害物だと思ったものは血の通った人間だった。
――え?
 機械の扉に隔てられていたとはいえ、匂いにも音にも細心の注意を払っていたはずだった。
 仄かに甘い香りが漂っていたのはわかっていた。
 だが、そこには生物が当たり前に持つ独特の臭気の一切が存在していなかった。
 つまりそこに“人間は居なかった”。
 けれど実際に少年はぶつかり、そしてその存在は何処からどう見ても人間でしかなかった。
「なんだ、餓鬼か」
 つまらなさそうに呟かれた声は人間を魅了し殺す悪魔のように低く甘く魅惑的なものだった。
 旋律のように美しいそれに脳の中心が痺れたような錯覚に陥る。
「ざぁんねん。女の子ならよかったのに」
 その男は黒いスーツを着ては居なかった。屈強な体躯をしているわけでもない。背は高いがむしろ華奢な印象さえ持った。
 決して強そうにも見えなければ、殺気や悪意の類だって存在しない。
 だというのに視界を埋めた深紅という絶対的な色彩と絶望的なまでの美貌に恐怖を感じ、膝が震えた。
 視覚、聴覚、嗅覚から侵食されて自身が飲み込まれていく。
 今までの誰とも違う。
 生きる匂いを感じないのも要因だったのかもしれない。
――得体が知れない。
 その言葉が何よりも相応しく、けれどそれさえも違和感を感じるほどの異様な存在。
 この男が殺気を纏っていたのならば、その瞬間にも少年は自ら命を絶っていたかもしれない。
 身動き一つ出来ずに居る少年に男は全くの興味も示さずに口を開いた。
「可愛い女の子、見なかった?」
 警戒さえ吹き飛ぶ恐怖の中、少年は押し黙った。
 思考を停止している脳が早く答えろと促すが、それをなんとか堪えることができたのは、此処で会った唯一の女性が、可愛い女の子かと言われれば微妙な線だったからだ。
 少年にとって彼女は強く格好よい存在で、可愛い女の子ではない。
 「別の人のことかもしれない」そう思うことで、少年はなんとか口を閉ざしていられたのだ。