予期していなかった者の乱入は、エナが本格的な戦いの予兆に腹を括ったときだった。
 視界の端で小太刀が微かに動いた気がして意識を向けようとした瞬間。
「会いたかった」
 場違いでしかないハートをふんだんに散りばめた美声がその場の空気をがらりと変質させた。
 皮膚がひりつくような緊張感は何処へやら。
 背後からぎゅっと抱きしめられ、エナは今度こそ間違いのないよく知る声と、馴染んだ甘い匂いに、その姿を確認することなく驚きの声をあげる。
「ジスト!? なんであんたが此処に……!」
 屋敷に入れるのは、オークション資格を持つ者とその護衛のみだったはず。それ以外の出入りに厳しいことは、地下を走り回りながら乱闘したエナなら容易に想像がつく。
 リゼやゼルならともかく、ジストが此処に居るとは思っていなかった。
「そりゃあエナちゃん、愛の賜物に決まってるじゃない」
 不真面目な解答に渋面するエナに、ジストは頬を擦り寄せる。駆け付けてくれたことに感謝はするが、この調子でははっきり言って、邪魔にしかならない予感がする。
 隻眼の男の最終的な目的がジストである以上、男が身を引くとは考えづらく、そうなると今は邂逅の衝撃で立ち往生している男だが、やがて先程よりも強く鋭い牙を剥くだろう。
 その時にジストが真面目に戦ってくれるかどうか、残念ながら今のこの段階では読めない。
「そ。てか離せ。今あんたの相手してる場合じゃ……匂いを嗅ぐな変態!」
 ワインの匂いに掻き消されているとしても、散々乱闘した髪やら首筋やらを匂われるのは居心地が悪い。
「冷たいなぁもう。ジストさんはこんなに一途に思ってるのに」
 臆面もなくそんな台詞を吐く彼に「いつにもましてウザいわ貴様!」と悪態をつき、腕を突っ張って距離をとろうとしたが、こんな押し問答にもすっかり慣れたらしいジストに難無く抑えこまれた。
 そして彼は唇が耳に触れるか触れないかの距離で、甘い声を更に甘くして猫撫で声でご褒美をねだる。なまじ良い声なだけに質が悪い。
「ジストさん頑張ったんだからちゃんと褒めて? そして浮気はやめてジストさんの元に戻っておいで。今なら赦してあげる」
「何の話だ」
「一途で寛大な亭主でしょって話だけど」
「ああ、なんだ。脳が迷子になってんのか」
 淡々と返すとジストは必要以上に大きな反応で歎いた。
「酷いな、こんなに尽くす亭主に対してその仕打ち……! エナちゃんってば鬼嫁……いや、鬼畜嫁」
「……炸裂具合、久々に振り切れてるねあんた。さすが、ちょっと引く」
 心底からの侮蔑を込めたその言葉にジストは楽しそうに声を弾ませた。人が嫌がれば嫌がるほど嬉々とするのはこの男の悪い癖だ。
「いやあ、此処に来るまでどうにも退屈で。つい脳内で色々やっちゃった。因みに子どもの数、知りたい?」
「いらないやい。」
 会話を終了しようと喰い気味で答えたエナの目の端でジストは蠱惑的な笑みを浮かべる。
 それを見てエナは頭を抱えたい衝動に駆られた。
 誰もが見惚れるようなそれが、意地の悪さを露呈するときに振り撒かれるものだとエナは知っているからだ。
 どうやら彼にはまだ会話を終わらせる気は無いらしい。
「で? そんな献身的な亭主の目を盗んで、どういうつもり?」
「……なにが」
 面倒臭いという雰囲気を全身に押し出して投げやりに言葉を返す。
「だって何これ」
 ようやく男の存在を認めることにしたらしいジストは、茫然自失で立ち尽くす闇の王にほんの一瞬だけ視線を投げた。そして不機嫌に声を曇らせ、趣味悪い、とぼやく。
「まぁた引っ掛けたの? エナちゃん節操なさすぎ。この浮気者」
 何処をどう見たらそんな言葉が出てくるのかわからないが、ジストらしいといえばらしい台詞に肩の力が抜ける。
「なんでそうなる。てゆか、あんたにだけは言われたくない」
 今までの戦闘よりもこのやり取りのほうが疲れる気がするのは何故だろう。
 視線を向けられたことで我に返ったらしい闇の王の乾いた笑い声が割り込んできたのは、既にこのやり取りに疲れていた彼女にとって救いだった。
 ジストによく似た、けれど間近で聞くとジストよりも微妙に張りがある声が多分の動揺と熱を宿して微かに震えながら紡がれる。
「これが……長年捜していた亡霊の姿か……! こんなふざけた男を、おれは何年も……!」
 そう言いたくもなろう、とエナは同情を覚えた。長年追い求めた、亡霊と呼ぶ程に認めたくない縁者がこんな残念な人格破綻者とは気の毒というほかない。
 案の定、素知らぬ顔で“なんのこと?”と言わんばかりに首を傾げて覗き込んでくるジストを手で払う。
「ジスト。あんたのことだから」
「えー? ジストさん男に追いかけられる趣味無いんだけど」
「趣味なくても、あるんじゃないの、心当たり」
 そう言うと彼はわざとらしく瞬きを繰り返した。
「そんなこと。いちいち覚えてるわけないじゃない。それともエナちゃんは今まで踏んじゃった虫を全部把握してるとか言う?」
 ごく当然のことのようにジストは言ってのけた。
 確かに意図の有無関係なく踏んでしまった虫を全て把握しているだなんて言えやしない。
 だがそれを人と重ねるのは人道的にどうなのだろう。
 エナが抱いた不満にジストはおそらく気付いた。一瞬だけ上がった口の端がそれを物語るが、そんな表情もすぐに上塗りして作られた笑顔に隠される。
「そんなことよりも今大事なのは、こいつがエナちゃんに手を出したってこと。あーあ、可愛い顔に傷なんて作って。あ、お嫁にいけなくなることはないから、その辺は心配しないで」
「してない。微塵も」
 ジストさんが貰ってあげるからね、という言葉に被せて即答する。
 闇の王と正味で闘えば自身に勝算は万に一あるかないかだと悟った上で、それでもジストに退場して欲しいとエナは切に思った。
 鬱陶しいやり取りは、不快を越えていっそ殺意さえ抱かせる。
 ちょっと殴っちゃおうかな、と考えた矢先。
「今は誇りを捨て雑用ばかりの闇屋を営んでいると聞いていたが……。思った以上の腑抜けだな、闇の王」
 エナは眉を顰めた。ジストに抱いた殺意をそのまま横流しにして八つ当たりしようとした感もあったが、それよりも。
「闇の……?」
 目の前のどことなくジストに似た男に、エナは先ほど闇の王だろうと予想を突き付けたばかりだ。
 この男もそれを否定はしなかった。
 ではなぜ、この男は今ジストをそう呼んだのか。
 この男の悪意に満ちた言い方に嘘を見つけることの方が難しい。
 男の言うことを鵜呑みにするならば、それの意味するところは。
「へえ、俺のこと随分知ってるんだ? なら話は早いな」
 それは事実上の肯定だった。
――ジストが、闇の王……。
 現在世界一と謳われる闇屋を営んでいる彼が伝説の暗殺者であったことに、さして驚きは感じなかった。むしろ、妙に納得しさえした。
 彼にとって怪我を負わせることよりも殺すことの方が何倍も簡単なのだろうとは、何度となく思ったことだ。彼が銃を撃つ前、必ず急所に照準を合わせてから少しずらして発砲することにエナは気付いていた。
 ほぼ無意識に近い領域で、彼は命を絶てる場所を狙ってしまうのだ。
「名を騙っても出てこないから肝の小さい屑だろうとは思っていたが……なるほど、女の尻を追いかけていたとは堕ちたもんだ」
 挑発的な言葉だが、こんなものがジストに通用するわけもない。ジストの精神は常識人からは想像もつかないほど図太いのだ。
まあ、エナが言えた義理ではないけれど。
「ああ、お前だったんだ。俺のお下がり看板背負ってたの」
 まあそういうことだろうと思ってたけど、と言いながらもさして興味を示さないジストは相手を見ない。
 今まで数え切れない程の女性を蕩けさせてきただろう笑顔を一身に浴びる一方で、対面する男の鋭い眼差しも深く刺さり、エナはなんとも複雑な居心地の悪さを味わう。
「お前の言うとおり、俺は今しがない闇屋で、エナちゃんは俺が選んだ依頼主。俺はエナちゃんの愛の奴隷ってわけ」
 彼はエナの顎を取り、こめかみに口付けた。
 こんな一癖も二癖もある気ままな奴隷は御免被る。
 そんなことを思いながらも半ば脱力したエナはその口付けを受け入れる。
 だが抵抗を諦めた手に与えられたひんやりとした重さの正体を認めたとき、エナは、はっとしてジストを見上げた。
 渡されたのは尖塔で落としたはずの三節棍。
 ジストと目が合うと、彼は笑みの種類を変えた。愛しい者でも見るかのような甘いものから、男らしい、見る者を安心させるようなそれへと。
 “任せなさい”――そう言われた気がした。