緋色の暗殺者 The Best BondS-4

 そこにあの検分するような眼差しはもう無かった。
「……この地下に居た、女の人。その残留思念、うるさくて」
 娘はこめかみを押さえ、そう答えた。
「残留思念……? この地下に居た、だと……?」
 まるで意味がわからず眉をひそめ鸚鵡返ししか出来ずにいると、娘は頷いて言葉を付け足した。
「かつて、地下に居た人。たぶんもう、この世には居ない人。……波長近いのかな、同調し過ぎる」
 充分な説明とは言い難いし、後半の台詞はやはり要領を得ないものだったが、男は深く掘り下げるよりも必要な情報を拾い上げることにした。
「誰なんだそいつは。……その女は、おれの何を知っている?」
「それは……」
 男は油断していた。
 紡がれる娘の次の言葉に意識を集中しすぎていた。
 だから娘が動いた瞬間もうまく対処出来なかったのだ。
「!?」
 急所を蹴り上げられ、男は痛みによろめいた。
 娘が視界から消える。
 脇をすり抜けた娘が真っ直ぐに扉に向かうのを見て、咄嗟に小太刀を放った。
「逃がすか……っ」
 金細工のノブに手を掛けた娘のその手首に向かって飛んだ小太刀は、娘が扉から手を放すことで扉際ぎりぎりの壁に斜め刺さった。再び閉まろうとする扉を小太刀の鍔が邪魔をしたが、今の娘に刀をくぐって廊下に出るだけの隙など与えない。
 娘の動きが完全に止まる。
「……」
 逃げる好機を失った娘は、ゆっくりと様子を窺いながら振り返る。
 その姿を見て、眉が痙攣するように動いた。
 威嚇を込めた剣呑な声で告げる。
「……足癖だけでなく、随分といい手癖を持っているようだな」
 娘の左腕と胸の間には、本が抱えられている。
 脇をすり抜けた瞬間に懐から抜き取られたのだ。
――全く、気付かなかった。
 その事実は男に天変地異並の衝撃と屈辱をもたらした。
 相手の能力を見誤るということは戦場において死を意味する。不覚、で済ませていいミスではないのだ。
 しかも遅れをとった相手が、こんな小娘とは。娘の身体を千々に引き裂いて、そんな事実ごと抹消してしまいたい衝動に駆られる。
「育ち良くない、って忠告。したじゃん」
 扉を背に向き直った娘の顔はなに食わぬものだった。だが娘の本を持たない方の半身の意識は扉に向けられている。後ろ手に扉を開ける機会を窺っているのだ。
 それを気取られるような未熟な娘に出し抜かれた自身が不甲斐なく許せない。
 だからこそ、男は娘に許しを与える。
 主導権はこちらにあるのだと知らしめるために。
「随分、舐めた真似をしてくれる。過ぎた悪戯だが、幸運なことにおれは寛大だ。今すぐ返すのならば今回だけは目を瞑ってやる。どうせおまえには価値の無い代物だ」
 もう二度と一分の隙も与えない。
 意識を娘の全身へと隈無く注ぐ。
 目の動き、指の動き、爪先の動き、喉の筋に至るまで注意を払う。
「価値ならある。てゆか元々、これ手に入れるために来たんだし。願いを叶える書……絶対、渡さない」
「願いを……?」
 娘の言葉に誤解を見出だす。
「そんな眉唾物の口伝を信じる人間が、あの男以外に居たとは驚きだが、残念だったな。願いを叶えるのは誓約の書だ。誓約の書はさっきの……あの男が持っていった」
 娘の瞳が探る色を宿す。自身が娘の諸動を見逃しはすまいというように、娘もまた眉や口元、喉仏を凝視している。血管の脈打つ速度までもを見ているのではと思う程、視線が強く深く刺さる。
「……それ、ほんと?」
「さあな」
 抑揚の無い声でそう答えると、娘は途端に頬を膨らませた。
「……なにそれ、むかつく!」
 娘の反応は男にとって意外なものだった。