*
ゼルの驚愕した顔が瞼の奥に焼き付いていた。
何の説明を与えることも出来ずただ拒み突き放した。
あの状況では仕方なかったこととはいえ、きっと記憶障害を懸念しただろう彼には申し訳ないことをした、とエナは思う。
エナは現在、動く床に流されるがままに落札者の部屋の下と思われる場所に居る。
商品ブースが通るだけの隙間しかない、細く天井の低い空間だ。
恐怖症とまではいかないが、狭い空間が持つ圧迫感を苦手とするエナがあの時ゼルの手を取らなかった理由は、大きく分けて二つある。
一つは仲間の保身だ。
爵位を持つ者が、犯罪者を雇ったり飼うというのは、実は割とよくある話だ。寧ろ何処の貴族も犯罪者や裏組織との繋がりを持っているといっても過言ではない。
だが、犯罪者と共謀したとなれば話は別。リゼの立場はたちまち危うくなる。
ゼルにしても剣士資格を目指すものとして絶対に敵に回してはいけないものがある。それが貴族だ。
ゼルが知っているか否かは別にして、剣士への登竜門である剣技大会は貴族からの莫大な寄付で成り立っている。
勿論、貴族の剣技大会への発言権は大きく、犯罪者と繋がるリゼを詰めるついでにゼルの素性や過去もあれこれ調べられた挙げ句、永久に出場権を失うに違いないのだ。
脅かされるものが地位であれ夢であれ、仲間が大事に思うものならばそれはエナにとっても大事なものだ。
そんな大事なものをかけて伸ばされた手を躊躇いなく取るには、エナの頭は少々回転が早過ぎた。
「ゼル……リゼと喧嘩……する、よなあ」
頭が痛い、とエナは眉間を摘む。
「だってまさか、リゼがあんな強行手段とるなんて、さ」
思わないじゃん、と力無く呟く声にふて腐れた感が無いのは、多少なりとも責任を感じているせいだ。
「……そうさせたのは、あたし、か」
リゼに面倒を丸投げした自覚があるエナは、肩を落としてうなだれ――ようとして顔をしかめた。
延々と続くリゼの愚痴を聞かされるだろう未来が想像出来てしまったからである。
――うわぁ、ほんとめんどくさいわそれ。
以前エナはリゼのありとあらゆる語彙を駆使して書かれた長い長い愚痴の手紙を読まされた経験がある。実際のところ眺めただけで読んではいないとの注釈が入るのだが。
げんなりと一度は口角を下げたエナだが、ややあって小さな笑みを浮かべた。
それは誰もが見過ごすようなほんの些細な笑みだった。
「仕方ない、か」
呟いて顔を上げる。
あの愚痴も厭味も説教も、彼が心を開いている証拠だ。歪んではいるが、あれこそが彼の愛情表現だったり甘え方だったりするということに、エナは気付いていた。
なればこそ彼女は“仕方ない”と笑うのだ。
「とことん、聞いてやるわ」
だからまず、その前に。
エナは枷から解き放たれた自身の手を瞼に沿える。
この場に残ることにしたもう一つの理由。
それを片付けよう、とエナは気を引き締めた。
ゼルの驚愕した顔が瞼の奥に焼き付いていた。
何の説明を与えることも出来ずただ拒み突き放した。
あの状況では仕方なかったこととはいえ、きっと記憶障害を懸念しただろう彼には申し訳ないことをした、とエナは思う。
エナは現在、動く床に流されるがままに落札者の部屋の下と思われる場所に居る。
商品ブースが通るだけの隙間しかない、細く天井の低い空間だ。
恐怖症とまではいかないが、狭い空間が持つ圧迫感を苦手とするエナがあの時ゼルの手を取らなかった理由は、大きく分けて二つある。
一つは仲間の保身だ。
爵位を持つ者が、犯罪者を雇ったり飼うというのは、実は割とよくある話だ。寧ろ何処の貴族も犯罪者や裏組織との繋がりを持っているといっても過言ではない。
だが、犯罪者と共謀したとなれば話は別。リゼの立場はたちまち危うくなる。
ゼルにしても剣士資格を目指すものとして絶対に敵に回してはいけないものがある。それが貴族だ。
ゼルが知っているか否かは別にして、剣士への登竜門である剣技大会は貴族からの莫大な寄付で成り立っている。
勿論、貴族の剣技大会への発言権は大きく、犯罪者と繋がるリゼを詰めるついでにゼルの素性や過去もあれこれ調べられた挙げ句、永久に出場権を失うに違いないのだ。
脅かされるものが地位であれ夢であれ、仲間が大事に思うものならばそれはエナにとっても大事なものだ。
そんな大事なものをかけて伸ばされた手を躊躇いなく取るには、エナの頭は少々回転が早過ぎた。
「ゼル……リゼと喧嘩……する、よなあ」
頭が痛い、とエナは眉間を摘む。
「だってまさか、リゼがあんな強行手段とるなんて、さ」
思わないじゃん、と力無く呟く声にふて腐れた感が無いのは、多少なりとも責任を感じているせいだ。
「……そうさせたのは、あたし、か」
リゼに面倒を丸投げした自覚があるエナは、肩を落としてうなだれ――ようとして顔をしかめた。
延々と続くリゼの愚痴を聞かされるだろう未来が想像出来てしまったからである。
――うわぁ、ほんとめんどくさいわそれ。
以前エナはリゼのありとあらゆる語彙を駆使して書かれた長い長い愚痴の手紙を読まされた経験がある。実際のところ眺めただけで読んではいないとの注釈が入るのだが。
げんなりと一度は口角を下げたエナだが、ややあって小さな笑みを浮かべた。
それは誰もが見過ごすようなほんの些細な笑みだった。
「仕方ない、か」
呟いて顔を上げる。
あの愚痴も厭味も説教も、彼が心を開いている証拠だ。歪んではいるが、あれこそが彼の愛情表現だったり甘え方だったりするということに、エナは気付いていた。
なればこそ彼女は“仕方ない”と笑うのだ。
「とことん、聞いてやるわ」
だからまず、その前に。
エナは枷から解き放たれた自身の手を瞼に沿える。
この場に残ることにしたもう一つの理由。
それを片付けよう、とエナは気を引き締めた。

