かき抱いたはずなのに、兄の姿は姫夜の三歩先に立っていた。
「兄さま」
 姫夜が呼ぶと、伊夜彦はふりかえった。伊夜彦のからだは淡く透き通って、かつて見た、別れたときと同じ美しい兄の姿だった。そのかげに隠れるようにして、少年の姿に戻ったヤギラがいた。ヤギラはうっとりと伊夜彦を見上げている。
「ここがどこかわかるか?」
 伊夜彦はやさしい声でたずねた。姫夜はあらためてまわりを見まわした。
 暗い坂だ。うすい靄がゆっくりと流れている。
 この風景には見覚えがあった。姫夜はつぶやいた。
「黄泉比良坂(よもつひらさか)……」
「そうだ。黄泉へと続く、現世とあの世のあわいにある坂だ」
 伊夜彦はゆっくりと歩き出した。
「お待ちください。なぜ兄上がケガレ神になられたのです? あのあと何があったのです。モモソヒメは――」
 姫夜が我に返って叫んだ。その性急さをたしなめるように伊夜彦は立ち止まって微笑むと、ふたたびすべるように歩き出した。姫夜はあわてて後を追った。
「あの日、わたしがケガレ神を封じにいったのは覚えているね。ケガレ神となって地をさまよっていた神はひとつではなかった。わたしはそれらを封じるのに何日もかかってしまった。そしてようやくすべてこの身に封じ終えたときには、もう力尽きかけていたのだ」
 伊夜彦はことばを切って、姫夜をみつめた。
「そのまま黄泉へ下って行くはずだった。ケガレ神も黄泉で安らえば、清らかな息吹を取り戻し、いつかまた、生き直すことができる。だが――モモソヒメはそうさせなかった。あの女王はわたしを黄泉から引きずり戻したのだ」
「まさか、そんなことができるはずが――」
「あの女は死返(まかるがえし)の玉をつかったのだ」
 死返の玉。神宝のうちのひとつだ。姫夜はぞっとしたように身をふるわせた。冷たい風が頬を撫で、ふわりと髪をなびかせた。
「わたしはあの女王のもとでふたたび息を吹き返した。だが、からだはケガレをとどめておくことができず、なかば喰われ、膿み崩れた。それがおまえたちの見たあの姿だ。わかるだろう――? どうしても、わたしは行かねばならぬ。それには、そなたの力を借りる必要があった。だから、モモソヒメの命ずるままに神門をくぐってカツラギの地へと降り立ったのだ」
 伊夜彦のことばは怒りも悲しみも、死すらも超越したように淡々としていた。
「わたしの、力? どういうことです、なにをおっしゃっているのです。わたしには――わかりませぬ」
 姫夜の声はふるえた。