事務所の入り口に足を踏み入れようとした時、

「梨乃」

穏やかな声に呼ばれ、ハッとしてそちらを振り返った。



鼓膜にすうっと浸透する心地良い重低音。その声が誰のものかなんて、わざわざ見なくてもわかる。


「岩本さん……」

ポツリ、ほとんど無意識的にその人の名を呟いていた。



「仕事サボって何やってんの?」

言いながら落ち着いた歩調で近付いて来て、彼は私の目の前に立った。


「サボってません!」

咄嗟に強く否定してしまったけど、すぐ、仕事をほっぽって岩本さんを捜しに来たことを思い出す。


「あっ、サボりました」

誤魔化すように笑いながら訂正した。



ふっと息を漏らして微かに笑んだ岩本さんに、いつものごとく見入ってしまう。けれど、今の状況を思い出して、確認しておかなくちゃと口を開く。


「本当に辞めちゃうんですか?」


「何で知ってんの?」


「いくら私でも、そのぐらいの空気は読めますよ」


すかさず返せば、岩本さんは「そうなんだ」と可笑しそうに笑う。