「きみは、誰?」
ぽつりと、疑問が口をついて出た。ほとんど無意識に近い呟きだった。女の子は口元に淡い弧を描いたまま答えた。
「誰でもないよ」
ぱちぱちと可愛らしく瞬きをする女の子。一拍置いてから、言葉を続ける。
「誰でもないし、何でもない。きみの見たまま」
二人称が「お兄ちゃん」から「きみ」に変わった事に気づいた瞬間、女の子の姿は消えた。いや、正確に言えば「変身」したのだ。角刈りの頭に無精ひげ、程よく焼けたはだが印象的な、とび職の格好をした大の男だった。先ほどの女の子とは対極に存在するような容姿である。
そして思った。どこかで一度、会ったことがあるような。
「きみのような若者が憂うほど、世界はまだ腐っちゃいねえよ」
がっはっは! 底抜けに明るい笑い声は、近所の住人をみんな起こしてしまいそうなほど大きかった。一番近くで聞いた僕は思わず耳をふさいだのだが、近所の家々の明かりが点く気配はなく、誰も起きては来なかった。この馬鹿でかい声が聞こえていないというのだろうか。
「誰も起きちゃ来ねえよ。今は特別な時間だから」
包み込むような優しさが含まれた言葉に面食らう。男はにかっと笑い、またもや「それ」は姿を変えた。
とろけるような空気をまとったひとだった。色素の薄い茶色の髪を肩まで落とした、白いワンピースの女性。薄く開かれた瞳に射抜かれ、深く沈んだ記憶に衝撃が走った。ぽんっと音を立てそうなほどあっけなく、長い間忘れていた記憶がよみがえる。
「りんご」
美しい女性が儚く笑いながら言う。僕の記憶と同じ声。覚えのある単語。
「りんご、あげるよ」
ぽーんと放り投げられたそれを、不意打ちながらも両手でしかと受け取る。手のひらにすっぽり収まったりんごは、まるくて赤くてつやつやしていた。
「きみが素直で優しい子ってことは、私が知ってるよ」
きらきらと、本当に後光が差して見えるほど、美しい笑みだった。まぶしい笑顔を真正面から直視してしまった僕は眩暈を覚える。一瞬目を閉じて、開く。次に視界に移ったのは、僕だった。



