世界に隙間無く散らばっていた霧が、ざわっと大きく揺らめいた。かと思うと、ぎゅるぎゅると世界を飛び回り、居場所を探すかのようなうねりを見せている。それは視界の端から中央を目掛けて集まっているように見えた。月明かりと街灯という微かな明かりに照らされた霧が、ものすごい勢いで視界を揺らしている。眩暈と吐き気を覚えるほどだ。とにかく激しく揺らいだそれは、やがて僕の視界の中央にもやもやと集まり、落ち着きを取り戻していった。霧が凝縮して固まった灰色の影が、あまりの超常現象の目撃で動けずにいる僕の目の前で揺らめいている。そして影はにょろにょろと形を変えていき、人間の形に見えたかと思うと、次の瞬間、小さな女の子の姿に変わっていた。
ちょこん、と。生身の人間の女の子がそこにいる。先ほどまでの鬱蒼とした霧はどこへやら、すがすがしい乾いた夜風が頬を撫でていた。
無言のまま見つめ合う。当然、そうしたかったわけではなく、目の前で起こった出来事が僕の脳の許容範囲を著しく超えていたために思考が停止し、そうすることしかできなかったのだ。
くりりと大きな瞳を向ける女の子の姿に、僕は脳が微かに働いたのを感じた。遠い記憶の彼方、どこかで一度、会ったことがあるような。
無遠慮にただただじっと見つめていると、女の子が不意ににこっと笑った。霧から生成された得体の知れない女の子だが、普通に可愛い。
「げんき?」
女の子が問う。にっこりとした表情のまま。
止まっていた僕の脳が猛烈な勢いで「ゲンキ」という言葉の意味の索引を始めた。
ゲンキ。げ、ん、き。げんき。げん気。元気!
はっとして息を吸う。今やっと脳が正常を取り戻した。元気というのは活発であること。健康であること。そう、僕は元気だ。
「元気」
頷きつつ、やっとこさ答えを返した。女の子は満足げに少しだけ顎を引いて、大きな瞳を三日月のように細めた。
「そう、お兄ちゃんは元気。体のどこにも、悪いところはないよ」
声や口調は幼い女の子そのものなのに、言葉のまとう雰囲気はまるで違った。僕の方がずっと年下であるかのような、やさしく諭す空気。何の根拠もないのに、僕はその言葉を腹の底から信じることができた。この女の子の言葉こそが真実であり、この世のすべてであると。



