足の向くほうへ無意識に歩を進めていると、とある公園に入っていることに気づいた。子供のころ、一番よく遊んだ公園である。遊具はすべり台がひとつ、ジャングルジムがひとつ、馬だか牛だかをモチーフにした、跨って座り前後に揺さぶる遊具が仲良くふたつ並んでいて、それから、ブランコがひとつ。ぽつん、と。ひとつだけ。
子供のころは、ひとつだけのブランコに何の疑問も持たなかった。ブランコの隣に列を作り、一人ずつ順番を待つことも、一度に子供たちがブランコに集まってしまったら、じゃんけん大会をして、勝った子から順番にブランコに乗ることも、五人より多く列が伸びたらブランコをこぐのはひとり十五回までで、終わったらすぐ次の子に交代しなくてはいけないことも。僕たちにとってただ当たり前の、ずうっと昔からそうであったかのような自然さで、この公園のブランコはひとつだった。
闇と霧に包まれた静かな公園で、数年ぶりにブランコに座る。夜の公園のブランコで物思いに耽る大人、というのはドラマや何かでたまに見るが、こんなにも落ち着かない気持ちになるものなのだろうか。かつて全身全霊で友達だったこの場所が、今はまるで赤の他人になってしまったかのように居心地が悪い。板の部分は座りにくくておしりが痛いし、キィキィとか細く音を立てる鎖は、掴むと手に赤茶色のサビが付いて鉄くさい。大学時代になけなしのバイト代で買ったこのカーディガンにはなんとしても付着して欲しくない、頑固そうなサビである。仕方なく両手をおとなしく膝の上に置き(サビの付いた手のひらは上向きにしてズボンに付かないように)、あのころはブランコに乗った状態でこんなにしっかり地面を踏むことはできなかったなあ、と考えながら、足を地に着けたまま軽くブランコを揺らした。他人になった公園が静寂の中に広がる音を受け入れる。キィ、キィ。重さを含んだその音は、昔のそれとは随分違う、初めて聞くような音だった。
あのころの僕といまの僕。果たして何が違うのか。何がこの公園を他人にしたのか。
その答えはわかりきっているはずだった。年齢が違う。時が経った。その通りだ。僕には変わるだけの時間があったのだ。この公園だって、あのころのままを保っているわけではない。滑り台やそのほかの遊具は塗装がぞろぞろと剥げて色が変わってきているし、馬をかたどった遊具は片側の塗装がほとんど消えて、シルエットで何の動物か当てるほか無い。いま座っているブランコだって、鎖や座る板は古いのに、柱だけは異様に新しい。いつだったか、老朽化の進んだこのブランコの安全性を保つために、柱をすげ替える修繕工事をしていたと聞いた。以前は雲ひとつ無い青空を思わせる青色だった柱が、今はただただ地味な灰色に変わっている。なぜあえて灰色を選んだのか、理由はさっぱりわからない。わからないが、あのころとの違いを感じるには十分すぎるほどの変化だった。



