今日は…歌い手がいない。
私はピアノの上に置かれたメトロノームに手を伸ばし……
テンポを確認する。
静寂の中に響く、その一定音に奴はしばし耳を傾けて……
スッと迷わず腕を上げる。
それが宙を切った瞬間に……
私は、音を奏でた。
何度も確認し、練習してきた通りに……
中道は正確に指揮をこなす。
まるでそれにつられるかのように……
追いつくかのようにして、
私は必死に鍵盤を追う。
昔から……
私は、楽譜を目で追うことができなかった。
指がメロディーを覚えているから……
視線はいつもそこ、
鍵盤の上。
間違えたら、感覚を取り戻すのが難しくて……
それが大きな失敗へとつがっていた。
「…大丈夫。何度も練習しただろ。俺に合わせて。」
奴がまるでエスコートするかのように……
ミスを恐れる私に、小さく囁く。
「…………うん。」
『俺を見て』って…
そう言われた気がした。
目と目が合った瞬間……
自然と、心が落ち着いた。
奴がつくる四拍子に……
次第に音が乗る。
初めての感覚。
なくなっていく焦燥感。
それにかわって感じる安堵感。
奴と私を結びつける何かを……
この一瞬一瞬に刻み込んで。
……ありがとう。
ありがとう、中道。
この時私は一度も止まることも、間違うこともなくて……
演奏を終えた後の奴の称賛の声に……
少しだけ、
いや………
だいぶ……
酔いしれたんだ。


