雨雲が、 立ち込めている。
俺はハンドルを握る手に力を込めた。
『ホテルに部屋をとりました。明日の夜、待っています』
パソコン画面に写し出された一文に、動揺した。
俺は今、新婚間もない妻を、裏切ろうとしている。
妊娠したかもしれないと喜んでいた妻。
だけど――
彼女と出逢ったのは今から一ヶ月前。
きっかけ仕事だった。
そつなく何でもこなす彼女に、なぜかたまらなく惹かれた。
信号待ちで車を停め、左手のリングを外し、ダッシュボードに入れた。
彼女が待っているホテルが、前方に見えている。
愛している。
まだ、唇にすら、触れたことない彼女を――
愛している。
出逢って一ヶ月。
俺たちはまるで、それが運命だったように、気持ちが寄り添った。
しかし彼女にも、遠い街で待つ人がいる。
その証が指に光っている。
解っている。
今までに触れ合ったのは、花火の下でそっと絡めた指先だけ。
しかし、今夜、きっと俺は、彼女を……。
車がホテルに着き、俺は駐車場から直接、部屋へと向かった。
ドアをノックすると、カチリとロックが解除され、彼女の瞳が現れた。
抱きしめたい。
しかし、そうしようとした腕を、彼女がすり抜け、冷蔵庫からワインとグラスを取り出した。
俺の脚が、一歩進むごとに、罪が増してゆく気がした。
絨毯の柔らかさに、責められている気がした。
彼女がワインを開け、グラスに注ぎ、俺に差し出す。
そのまま、二人でグラスを傾けた。
「さよならを、言わせてください」
薄いカーテンを開け、煌めくスカイツリーを見つめながら、彼女が言った。
「明日で、あなたとの仕事も終わります。だから今夜、あなたとこの美しい景色を、大好きなワインと一緒に見たかった……」
俺はうなずいて、そっと彼女の指を握った。
これ以上も、これ以下も、俺たちにはない。
これが、最大の想い。
彼女が俺の指を握り返す。
この指が離れたら、それぞれの人生へ戻ろう。
暗黙の会話が交わされた。
愛している。
きっとこれからも
愛している。
俺の指がゆっくり彼女から離れる。
スカイツリーが一瞬、泣いたように、色を変えた気がした。