魔王に甘いくちづけを【完】


・・・・―――クリスティナ―――――

あの日、強引にでも城に連れて来ていれば・・・。

それが悔やまれてならない。


風に花弁が舞う中で手を振るクリスティナの笑顔。

いつまでもこの腕の中に閉じ込めておき、慈しみ守りたいと心の底から思えた。


―――あれが最後になろうとは、全く思いもよらぬこと。

婚儀の日取りを決め、愛を語ったあの日。

あの日に戻ることが出来たなら、私は何もいらないとさえ思う。

時間を戻すことはできない、か。

自分の望むことも出来ずに、何が魔王だ―――

湧きあがる憤りを発散するように手にしたワイングラスを壁にぶつける。

派手な音を立てて飛び散る破片。

それを、虚空の瞳が無言で見つめた。




「・・・戻ったか―――」



小さな魔物の息吹を感じ、視線を脇のテーブルに落とす。

空気が揺らぎ、もやもやと浮かび上がってきたのは、あの黒い影。

書状に忍ばせた小さな黒の使い魔。

セラヴィが掌を差し出すと、それはぴょこんと乗り込み、所在なくうろうろと青白い肌の上を動き回る。




「・・・お前、何故戻ってきた」



セラヴィが唸るように問い掛けると、しゅんと項垂れたように縮こまり、小刻みにプルプルと震えだす。




「・・戻ったということは、失敗した・・・ということだな?」



ゆっくりと噛み含めるように、確認するように、出される低い静かな声。

見下ろす温度のない漆黒の瞳には、失敗を許さない非情な色が浮かぶ。

黒の使い魔は恐怖に震え、掌の上でぐるぐると回り始めた。

掌から逃れようにも見えない壁が阻み、そうさせない。

逃げ場を失った黒い使い魔。



セラヴィの薄い唇が歪み、狭く開いた隙間から低く抑揚のない声が漏れ出る。







「使い魔よ、無に帰すがいい」






・・・・ポッ・・・・



消え行く運命から逃れるように動き回っていた使い魔は、微かな音とともに空に霧散した。




掌を暫く見つめた後、ぎゅっと握りしめる。

爪が食い込み、ぽたりと一滴の血がしたたり落ちた。




―――あれを阻んだのは流石だと敬意をはらっておこう。

・・・やはり、思うより手強い・・・。

そなたを跡目にと、望む私の目に狂いはない。


だが、あれも完全体で戻って来ていない。

少しは体に入っておるはずだ。それだけで私の力は及ぶだろう。

・・・今はそれで良しとしておこう。

今は、な・・・・待っていろ。

私が必ず会いに行く。

そして、この手に―――




セラヴィの心の中に生れ出る感情。

それはまだ見ぬ娘に対する恋心なのか、ただクリスティナの面影を追い求めているだけなのか。

どちらかは分からない。

ただ、娘に会いたい。会って話をしたい。

その想いだけが時間とともに膨らんでいった。





「・・・ケルヴェス」


「―――はい、セラヴィ様。ここに御座います・・・」



ケルヴェスに耳打ちをし、霧のように消えてく姿を見送った後、セラヴィは窓の外を眺めた。


自らが清めた月が空に輝く。



セラヴィの眠れぬ夜が、更けていく―――