ああ、彼は今まで〝本物〟を見たことはないのね。月が見えることは、当たり前だったのに。
〝当たり前〟が、消えていく。そしてそれが再び当たり前になることは……もうない。
無意識に、繋いでいる手に力が入る。それに気付き、青年は彼女に目をやった。
どこか悲しそうな、悔しそうなその顔に、静かに彼は口を開ける。
「ありがとう」
その言葉に、少女の顔は怪訝そうな表情に変わる。
「……どうして?」
私が感謝されることなんて、何もないのに。全て、私のせいなのに。私は……憎まれる立場なのに。
「君と出会わなければ、きっと夜に外へ出ることなんてなかった。本物の月を見るなんて、きっとできなかった」
それに、と彼は続ける。
「君がこの世界の〝中身〟を創ってくれなかったら、人間(コピー)に生命(いのち)を吹き込まなかったら、俺はあの夕陽を――あの紫紺の空を、見ることができなかった。……俺さ、紫紺の空を眺めるのが、一番好きなんだ」
壮大に広がる紫紺の空と、沈みゆく夕陽。
まだ幼かった彼は、初めて見た地上の景色に目を見開け、ある男性の手を握り、ただただ、それを眺め続けた。
「だから、ありがとう」
そして君と出会えたことにも、感謝を。
「……っ」
少女はどう返したらいいのかわからず、俯くことしかできなかった。そんな彼女の様子に、青年は微笑む。
「さ、行こう」


