「蒼樹、僕らこれで失礼するよ」
 秋斗さんが切り出したのは夕方五時を回った頃だった。
 なんだか名残惜しい……。
 楽しい時間を過ごすと、「じゃぁね、バイバイ」と言うのがとても寂しくなる。
「翠葉、そんな顔しなくても明後日にはまた学校で会えるんだから」
 桃華さんになだめられてしまう。
「そうだよね。そうなんだけどね……」
 やっぱり名残惜しいものは名残惜しいのだ。
 そんな自分が小さい子みたいで嫌になる。
「翠葉ちゃん、今日は朝からずっと行動しっぱなしでしょ?」
 秋斗さんに言われ、さらには秋斗さんの携帯を見せられた。
 目にしたものはメール受信画面。そこに記されていたのは私のバイタル数値だった。
「湊ちゃんからのメール。今のところ、異変があると湊ちゃんからメールが届く。あと少しで改良が終わる。そしたら、僕らの携帯からもチェックできるようになるよ」
「……忙しいのにすみません」
「それはなし。言ったでしょう? 僕がやりたくてやってることだって」
 秋斗さんは少し寂しそうに笑った。でも、とても優しい眼差しだった。
 そんな表情が蒼兄に少しかぶる。
「なんの話?」
「なんの話ですか?」
 藤宮先輩と桃華さんに訊かれたけれど、バイタルチェックされていることは言いづらい。
 何よりも、バイタルチェックをされるようになったいきさつがいきさつなだけに困ってしまう。
 どうしようかと思っていると、
「それは内緒」
 秋斗さんが代わりに答えてくれた。
 それを聞いて桃華さんが、
「蒼樹さんも知ってるんですか?」
 と、蒼兄を仰ぎ見る。と、
「うん、知ってる」
 言って蒼兄が私を見た。
「きっと、そのうち翠葉が自分から話すと思う。だから、できればそれまで待ってもらえると嬉しいかな」
 桃華さんが大きなため息をついた。
「また隠し事なのね」
 チクリと胸が痛む。でも、桃華さんの目は、「仕方のない子ね」って感じだった。
「待つわ。いつか、話してくれるんでしょ?」
「……うん。いつか、ちゃんと話す。でも、自分にとっても衝撃なことだったから、だからちょっと時間かかるかも……」
 自分が自分の命を放棄しようとしていたなんて、湊先生に言われるまで自覚はなかった。
 それがゆえに作られたようなこの装置。
 今はお守りと思えるけれど、それだけを答えるのは何か違うと思ってしまう。
 すべてを話す必要はないのかもしれない。でも、話すなら包み隠さず話したいから……。
「それ、俺も聞けるの?」
 藤宮先輩に訊かれた。
 こういうとき、この人はどうしてこんなにも冷ややかな視線を向けてくるのだろう。
「……そうですね。桃華さんに話すときは一緒に話します」
「わかった」
 それだけ口にして、先輩はひとりさっさと玄関を出ていってしまった。
「あー……拗ねちゃったかな」
 秋斗さんが蒼兄を見て言う。
「どうでしょう……。司が同じ年頃の子たちと話してるのってあまり見たことないんで、自分はちょっとわかりかねますが……」
 その一方、桃華さんは「ガキね」と吐き捨てた。
「あっ! 桃華さん、秋斗さんもちょっと待ってて?」
 私はふたりを引き止めキッチンへと向かった。
 さっき、クッキーが美味しいと言ってもらえたのが嬉しくて、コーヒーを淹れている間に残っていたクッキーを三等分に分けて包んでいたのだ。
 それを持って玄関へ戻る。
「さっきのクッキーです。もし良かったら、帰ってから食べてください。……秋斗さん、申し訳ないのですがこれ……」
「司に、かな?」
「はい」
「嬉しいけど、でも、いいの?」
「今日はたくさん助けてもらってしまったので……」
 そのやり取りに蒼兄が口を挟む。
「翠葉、今日何かあったのか?」
 蒼兄の視線をかわせるわけもなく、どうしようかと思っていると、
「蒼樹さん、知ってました? 翠葉の中学の同級生、最悪なのが勢ぞろい」
 辟易とした顔をした桃華さんの言葉にドキリとする。
「……同級生? とくに親しい友達はいなかったと思うんだけど」
 蒼兄の反応は正しい。
 中学のとき、蒼兄に話したくなるほどの出来事も、人との交流もなかった。
「あれは本当に最悪だったな」
 と、秋斗さんがため息をつくと、蒼兄から痛いまでの視線を注がれた。
「なんでもないよ……? 少し嫌なことがあっただけ」
 ごまかせるのならごまかしたかった。けれど、桃華さんに額をぺしりと叩かれる。
「そうやって何もなかったことにしないの」
「翠葉ちゃんは知られたくなかったのかもしれないけど……。僕は今日一緒にいられて良かったと思ったよ。それと、中学の同級生は今後一切翠葉ちゃんに近づけたくないかな」
「だから、なんなんですかっ!?」
 蒼兄が秋斗さんに詰め寄ると、
「蒼樹が翠葉ちゃんの側にべったりくっついていたことにはちゃんと意味があったってことだよ」
 それだけを言うと、「じゃぁね」と玄関を出ていってしまった。
「秋斗先生の言うことはもっともだと思います。蒼樹さん、かなりぐっじょぶだったと思いますよ? じゃ、また明後日ね」
 桃華さんも手を上げて玄関を出てしまった。
 その場に残されたのは私と蒼兄なわけで……。
「翠葉ちゃん、ちょっとおいで? お兄ちゃんとお話ししようか?」
 満面の笑みで手を掴まれ、リビングまで連行された。
「何があったのかな?」
 私の真正面を陣取り、今までにないくらいの笑顔で訊かれる。
 こうなってしまったらもう逃げられない。蒼兄が笑顔のゴリ押しを始めると、私の手には負えないのだ。
「中学のときのクラスメイトに話しかけられただけ」
「……それだけなら秋斗先輩や簾条さんがあんなふうに言わないと思うんだけど?」
「…………」
「補足する説明はないの? もしくは、言葉を間違えたとか」
 きれいな笑みはどこまで深まるのだろうか。そんなことを考えていると、
「翠葉っ」
 問い詰めるように訊かれた。
「……少し、絡まれただけ……」
「それは男? 女?」
「……一度目は男子。二度目は女の子五人だった」
 これ以上は話さなくてもいいだろうか……。
 上目勝ちに蒼兄を見ると、
「秋斗先輩と簾条さんが憤慨していた理由は?」
 見逃してもらえそうにはなかった。
 にこりと笑っているにも関わらず、あり得ないほど声が低い。
 仕方なく、藤棚での出来事と帰り際に女の子たちに投げられた言葉の数々を白状した。
「なぁ、翠葉……。今まで学校での話を家ですることがなかったのって、そういう理由からか?」
 訊かれて少し困る。
「学校の話をしなかったのは、話したくなるほど楽しい出来事がなかったからだよ」
「そういう問題じゃなくて……。中学でいじめられてたのか?」
 それもよくわからない。
 机の落書きや物がなるなること、無視されること。それをいじめと言うのならそうなのかもしれない。でも、なんとなく"いじめ"という言葉を認めることができなかった。
「ごめんなさい」
 何に対して謝っているのか、自分でもわかってはいない。
「翠葉……謝るようなことじゃないだろ? ただ……もう少し早くに知りたかったかな」
 寂しそうに笑って頭を撫でられた。
「今は……? 今の学校は?」
「今の学校はびっくりするくらい楽しい。クラス全体が仲良くてね、毎日がキラキラの宝物みたいに思える」
「そっか……ならいい。今が幸せなら」
 言うと、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 今は幸せ……。
 この幸せはどこまで続いているのかな、って先を考えると少し怖くなるけど。でも、終わりはないと思っていたい――。