カウンター奥にある俺の仕事部屋の鍵を開錠する。
 アナログの鍵を開け、暗証番号を入力し、カードキーを通すとカチリ、とロックの外れた音がする。
 ここのセキュリティもどうかと思う……。部屋の改装時に直すべきだったな。
 前任者は一体どういう趣向の持ち主だったのか。きっとデジタルにはあまり明るくない人間だったのだろう。
「さぁ、どうぞ」
 彼女を部屋へと促す。と、どうしたことか入り口で固まってしまった。
 部屋に入ることなく部屋のつくりに視線を巡らす。四方の壁と窓、そしてインテリアのひとつひとつに。
「翠葉ちゃん、どうかした?」
「あ、いえ――なんだか見たことがある気がして……」
「デジャヴ?」
「そういうわけでは……」
「ま、入って入って」
 この部屋は蒼樹がデザインした部屋だ。
 インテリアひとつとってもすべて蒼樹が手配してきたもの。
 どこかでそのデザイン画か家具のパンフレットを目にしているのかもしれない。
 とりあえず、奥のダイニングテーブルのスツールに座らせる。
 まずはお茶かな?
 蒼樹に渡された紙袋から三つの缶を取り出し、そのうちのひとつを淹れることにした。
 缶の蓋を開けると優しいハーブの香りがした。
 それにしても、カフェインが摂れない体質とは……。
 俺なんて、カフェインなしでは生きていけない人間だというのに。
 お茶を淹れてテーブルに戻ると、まだ不思議そうに部屋の中を見回していた。
「じゃぁ、まずは自己紹介。僕は藤宮秋斗。この図書室の司書と、この棟全体の管理をしています。蒼樹は二個下の後輩なんだ」
「あ、一年B組の御園生翠葉です。兄がいつもお世話になっています」
 勢いよくスツールから立ち上がり、自己紹介をする。
 一瞬よろけた気がするけれど、少しバランスを崩しただけだろう。
 ペコリとお辞儀をすると、司も自己紹介を始めた。なんとも簡素な自己紹介を。
「二年A組、藤宮司。――御園生さんはよくここに来るから知ってるだけ」
 蒼樹のことを知ってるだけ、とは……。もう一年の付き合いにはなる人間のことを一言で済ませるのはどうかと思う。
 呆れた顔で司を見ていると、ドアの方から新たな声が発せられた。
「ずいぶん素っ気無いな。一緒に徹夜で仕事片付けた仲だろ?」
 中途半端に厳重なドアに蒼樹は寄りかかっていた。
 この男はそんな立ち姿ですら様になる。
 今日は図書室の利用者がいないことを見越して、司がドアを開けたままにしていたのだろう。
 そのほうが風が良く通るから。それを俺が好むのを知っていての行動。
「蒼兄っ!」
 大好きな人を見つけたかのような喜びを見せたのは彼女。
「いつからそこに……」
 若干嫌そうな顔をしたのは司。
「蒼樹、もう終わったの?」
 これは、膨大な資料集めを指示した自分の言葉。
 朝、物々交換よろしくお願いした数々の資料を脇に抱えていた。
 要領を得ない人間ならカートに積んでくるであろう分量の資料を、この男は数冊のファイルに変えて持ってくる。
「翠葉、今日はどうだった?」
 今にも溶けそうな優しい顔で妹に歩み寄る。
 今までだってそんな顔は散々見てきたつもりではいるけれど、対象物が目の前にいると拍車がかかるようだ。
 それはとても微笑ましい光景で、ふたりの周りだけとても柔らかな空気に変わった気がした。
 彼女の周りに張られていた警戒の壁が緩んだからだろうか。
 蒼樹が現れて、明らかに彼女の表情が変わった。今はとても穏やかで柔らかな表情。
「どうもこうも、今日は入学式だけだよ?」
「そっか、そうだった。ところで翠葉、座ったらどうだろう?」
「あ、はい」
 そんなふたりの空気を邪魔したくなって、蒼樹にお茶を差し出す。
「今、淹れたばかりだから蒼樹も飲んでいきなよ」
「ありがとうございます」
「お茶の一杯二杯で蒼樹って優秀な手足が手に入るならいくらでも?」
「はは……要領の良さは相変わらずですね。今朝頼まれた資料、カウンターに置いておきました。全部持ってきたつもりですけど、足りないものがあれば言ってください」
「悪いね」
 カウンターに置かれた資料に視線をやりながら思う。
 きっと、何ひとつ欠けているものなどないだろう、と。
 それに加え、使う順番や見やすいように整理されているのはいつものこと。
 こんな手足が入るのなら、妹の託児所でもなんでも引き受けようと思う。
「これ……」
 彼女がお茶を口にして目を丸くする。
「ん? あぁ、このお茶ね。今朝、蒼樹に渡されたんだ」
「学校の自販機に入ってるもので翠葉が飲めるの水しかないからな」
 蒼樹が苦笑いを浮かべた。
 それらを知ったうえで、妹が飲めるお茶を用意してくるところが、この男のシスコン度合いを表していると思う。
「カフェインが入ってるものや味の濃いものが飲めないんだってね? そこの棚に並んでる缶は全部翠葉ちゃんのお茶だから、いつでも飲みにおいで」
 簡易キッチン脇にあるカップボードを指して言う。
「……秋兄、何か忘れてない?」
 パソコンカウンターに席を陣取った司から鋭い突っ込み。
「何が?」
「ここ、関係者以外立ち入り禁止」
「つまり、関係者なら問題ないわけでしょ?」
「あぁ、そういうこと……。基準値に問題は?」
「司、彼女は外部生だよ? 素材はいいはず。それを使いこなせないのなら、お前の力不足だな」
「ふーん……」
 司が何事に対しても突っかかってくるのはいつものことだけど、今日はいつも以上な気がしなくもない。
 ま、一年前の出来事の発端が目の前にいるのだからそれも仕方ないか……。
 だけどさ、きっとこの子はそんなことは知らないよ。
「翠葉のセールスポイントは計算力かな? 正確だし速いよ? それは俺が保証する。物事は系統だてて教えればそのまま覚えられる。苦手なのは暗記」
 蒼樹は自慢げに妹のセールスポイントを話し始めた。
 彼女はなんの話なのか全くわからないといった顔で目をパチクリさせている。
「ほかは……そうだな、パソコンの入力もミスタッチなしでいける。書式や文例があれば応用させるのは得意」
「……なるほど、ならすぐにでも使えそうだ」
 司は司でこの子の使い道を考えているよう。
 なんだかんだ言いつつも、彼女が生徒会に入ることには反対ではないらしい。
「これ……なんの話?」
 恐る恐る、といった感じで自分の隣に座る兄に質問をする彼女。
 その引きつり笑いのかわいいことったらない。これはいじめ甲斐もありそうだ。
「それはね、翠葉ちゃんを生徒会役員に引きずり込もうって話だよ」
 言うと、彼女は文字どおりにフリーズした。
 面白い……これはしばらく楽しい思いができそうだ。


 このとき俺は、暇つぶしのひとつになるとしか思っていなかったよね。
 まさか、この子に自分を変えられるとは思いもしなかった――。