図書室前まで来ると、
「そろそろ指紋認証とか声紋認証にすればいいのに」
 文句を言いながら、先輩がカードキーを通した。
 ドアが開くとすぐそこに秋斗さんが立っていて、
「それいいね。早速来週には申請を出すことにしよう。そしたらここを利用する人間にカードキーなんて煩わしいものを発行しなくて済むし、なくされることもないから再発行なんて面倒な作業もなくなる。司もたまにはいいこと言うな」
 顔は笑っているのに抑揚を感じる話し方に凄みを感じる。
「……何。また、会長あたりがカードキー失くした?」
「そう……だからカードキー情報全とっかえ。司、できることならあの野生児捕獲して檻にでも入れておいてくれないか?」
「……曲がりなりにも先輩だし人間だから」
「影の会長って言われてる司ならできるだろ?」
「……それ、誰のことかわからないし」
 テンポ良く応酬を繰り広げるふたりは息がぴったりだ。
「翠葉ちゃんもおかえり。ケーキ買ってきたから一緒に食べよう」
 仕事部屋に通されると、テーブルの上には見覚えのある箱が乗っていた。
 白地に灰色のストライプ、ボルドーの文字で"Andante"と書かれた箱は、私の好きなアンダンテ洋菓子店のもの。
「私、お茶淹れます!」
 嬉しくて、足取り軽やかにお茶の準備を始める。
 電気ケトルにお水を入れてスイッチオン。あとは電気任せ。
 ティーポットの用意をしようとハーブティーの缶に手を伸ばし、「あ……」と思って手を止めた。
 秋斗さんはハーブティーが飲めるみたいだけど、先輩はどうなんだろう?
 ハーブティーは香りや味が苦手という人も少なくないから少し気になった。
「先輩、ハーブティー苦手じゃないですか?」
「基本的に好き嫌いはない」
「……コーヒー、淹れましょうか?」
「コーヒーは飲みたくなったら自分で淹れる。今はハーブティーでいい」
 そう言うと、先輩は棚からケーキプレートを出し始めた。
 お茶とケーキが揃うと、秋斗さんは苺タルトが乗ったプレートを私にくれる。
 自分にはブルーベリータルト、先輩にはチーズタルト。
「苺のタルトが一番好きなんでしょ?」
「はい」
 満面の笑みで答えたけれど――私、そんな話したっけ……?
「……甘いものが好きなわけじゃないけど、アンダンテのケーキならなんでも食べられる。機嫌が悪くてもここのケーキを買って帰るとすぐに機嫌が直る。どんなに食欲がなくてもここのタルトだけはがんばって食べようとする。因みに、一番好きなのは苺タルト」
 淡々と話し続けたのは先輩だった。
「どうして知ってるんですか?」
「情報源なんてひとつしかないだろ」
 先輩はツンと澄ました顔でティーカップを手に取る。
 ……確かに、今のは訊いた私が間違っていたと思うけど、そこまでツンツンしなくってもいいのに。
 警戒包囲網を緩めてほしいって言われたけど、これじゃ緩められないよ。
 思っていることが顔に出ていたのか、先輩をフォローするように秋斗さんが口を開いた。
「蒼樹がさ、こっちが訊かなくても翠葉ちゃん情報を垂れ流していくんだよね。だから僕たち、意外と翠葉ちゃんのこと詳しいと思うよ」
「……そう、なんですね」
 蒼兄、どこで何を話してくれているの……。
 ここでの蒼兄と家での蒼兄のギャップが激しくて少し戸惑う。
 私は恥かしさを紛らわせるために、「いただきます」と苺タルトにフォークを刺した。
 口に入れればサクサクタルトの香ばしさと甘すぎないカスタードクリーム、酸味を感じない甘い苺が調和する。
 美味しくて頬が緩む。と、
「御園生さん情報は強ち外れてない」
 その言葉に、ヒク、と頬が引きつる。
「蒼樹曰く、ふにゃっとした至福の顔」
 正面に座る秋斗さんと、その隣に座る先輩の視線が痛くて食べづらい。
 少しむくれると、秋斗さんがくつくつと笑いだした。
 蒼兄のカバ……。
 視線を苺タルトに落としていると、カタ、と小さな音を立てて先輩が立ち上がり、ソファセットへと歩きだす。そして、床に落ちていた紙を手に取った。
 あ、さっきの――。
「こういうの、知られたくないならちゃんとしまっておくべきじゃない?」
「すみません……。それ、返していただけますか?」
 この短時間ならまだ読まれてはいないだろう。そう思ったのに――。
「申し訳ないけど、もう全文に目を通した」
「えっ!? 手に取っただけなのにっ……!?」
「……速読ができればこの程度のものに時間は必要ない」
 冷ややかに笑う様に背筋がゾクリとした。
 少しでも動揺したのを見破られたくなくて、自分も言葉を繰り出す。
「芸に秀でていらっしゃるようで羨ましい限りです。でも、見られたのは不覚でした」
「……秋兄には話したんじゃないの? なのに、俺には話すつもりがなかった?」
 先輩のツンとした感じがよりきつくなる。
「……いえ、そういうわけでは……あったかもしれませんが……」
「……それ、否定になってないから」
 先輩は呆れたような目で私を一瞥すると、ルーズリーフに視線を戻した。
 ダイニングスツールに座っていた秋斗さんはクスクスと笑いながら、
「司も心配してたんだよ。たぶん、一年前からずっと。本当に蒼樹は何も話してくれなかったから。で、先日の一件でしょ? 僕や蒼樹に連絡をくれたのも司なんだ」
「え……? そうだったんですか?」
 先輩はルーズリーフを見たまま、
「その場で俺にできることがそれしかなかっただけ」
 と、端的に話す。
 何が起きても動じなさそうな人だけど、やっぱり驚いたのだろうか……。
 じっと見ていると、
「……俺をなんだと思ってる?」
 格好いいけど、ちょっと冷たくて意地悪な人。
 思わず口にしそうになった言葉は頭の中に留める。
「保健室に着く前に意識がなくなるわ、容態もどんどん悪くなるわ、血圧なんてあり得ない数値で――。一年前の御園生さんの気持ちを察するくらいには驚いた」
 強調の仕方が不思議な人だったけれど、驚いたというよりは今は怒っている気がする。
「その人間に対して言うつもりがなかったって何?」
 底冷えするような視線を向けられ、心臓が変な動きをした。
 不整脈かな、と思いながら胸を手で押さえ、
「すみません……今、改心しました。ごめんなさい……」
 真面目に謝ったつもりだった。なのに、秋斗さんが吹き出す。
「翠葉ちゃん、面白すぎっ」
 言った本人は面白いことを言ったつもりはないのだけども……。
「改心して、話してくれる気になったわけ?」
 先輩からはまだ解放されていなかった。
「翠葉ちゃんも司も、お茶が冷めるよ」
 後ろから秋斗さんに声をかけられ、とりあえずダイニングテーブルに戻ることにした。
 先輩も戻ってはきたけれど、その手にはまだルーズリーフがあるわけで……。
 私の視線に気づくと、
「改心したなら話してもらえるものと解釈するけど?」
 と、やっぱり鋭い視線が飛んでくる。
 けれども、"冷たい"という印象は少し和らいだかもしれない。
 本当に冷たい人ならば私の病状を訊こうとはしないだろうし、関わろうとも思わないはずだから。
 先輩のことをうかがい見ていると、
「……人のことサーモグラフィーにかけたりしてないよな?」
 どうしてそんなことを訊かれているんだろう?
 サーモグラフィーにはかけてないけど、冷たいかどうかは考えていただけに、否定はしきれない。
「……あるかもしれないけどどうぞお気になさらずに」
 私は色んなことをごまかすために、先輩から視線を引き剥がし、少しぬるくなって飲みやすいハーブティーをゴクゴクと飲んだ。
「ふたりの会話、さっきから変だよ?」
「そうでしょうか? 秋斗さんの気のせいだと思いますよ?」
 サクリと返し、今度はこっそりと先輩を盗み見る。
 先輩はとても不服そうな顔をしていて、私は私で良心の呵責を少しばかり感じていた。
 謝ったほうがいいのかな……。
「……先輩、ごめんなさい。ほんの少し前までは横に並べないくらいには怖い人だと思っていました。だから、言う言わないじゃなくて、そういう選択肢に入ってなかっただけで……」
 良心の呵責プラスアルファで自分をフォローしたつもりだったけれど、
「選択肢に入ってないってもっとひどいと思うけど?」
 追撃されて撃沈……。
 もしかしたら、今は何を言っても墓穴を掘るだけかもしれない。ならば閉じよう。この口はもう開かずにいよう。
 そう思っていると、
「今は?」
 と、改めて尋ねられた。
「今なら話せそうです……。でも、もうそれ読んで覚えてしまったのでしょう? それなら、話すことは何もないかなって……」
 先輩は「確かに」と、ため息をつくとルーズリーフをテーブルに置いた。
「……よくこれで日常生活が送れる」
「……え?」
「血圧低すぎ」
 ……どうして? なんで血圧の数値のことがわかるの?
 健康な人で、しかも高校生くらいじゃ血圧数値なんて無縁のはずなのに……。
 私の疑問を察知したのか、
「司は医者を目指してるからね。……っていうか、家がそうい家だから、そこら辺の子よりは詳しいと思うよ」
 秋斗さんが教えてくれた。
「御園生さんが過保護になるのも仕方ない、か……」
 ぼそっとこぼした内容は、さっきの秋斗さんが口にしたものと同様のものだった。
「それ、まるきり同じことをさっき秋斗さんにも言われました」
 言うと、ふたりは顔を見合わせ、「こればかりは同感」と言わんばかりの顔をする。
 その場の空気はなんとも居心地が悪く、私は苺タルトの幸福感に逃げることにした。