体調に異変を感じたのは七限を受けている最中のことだった。
 でも、まだ大丈夫……。
 八限は未履修分野の補講時間だから、自分のペースで問題集を解いていくのみだ。
 そう思って補講が行われる教室へと移動した。
 この時間が終わったら蒼兄に連絡を入れよう。病院へは連れて行ってもらおう。
 動作はゆっくり、それさえ守れば保健室までもたどり着けるはず。
 数学の最後のページを終わらせると、さほど頭を使わなくてすむ教科を探す。
 現国、かな……。
 ぼーっとしながらゆっくりと問題を解いていく。その途中、少し自分の体の状況分析を試みた。
 体が熱いのはきっと発熱をしているから。椅子に座っているのがつらいのは血圧が下がり始めているから。
 時計を見ればあと二十分もある。
 早く……早く終わらないかな。
 頭の回転がひどく落ちていて、二十分もあったのに現国の問題集は三ページも進めることができなかった。
 補講時間に解放されると蒼兄に連絡を入れるため、制服のポケットに手を入れる。しかし、手に触れるものは何もなかった。
 かばんの中だっただろうか。
 朦朧としながらかばんの内ポケットを探すも見つからない。
「あ……」
 すっかり忘れていたけれど、司書先生に携帯を預けていて今は手元になかったのだ。

 体育の時間、レポートを書くために体育教官室へ向かう途中で司書先生に会った。
 そのとき、蒼兄から携帯を買ったということを聞いていたのか、
「翠葉ちゃん、携帯を買ってもらったんだってね」
 と、話しかけられたのだ。
「はい。まだ基本操作の電話をかけることと、メール、写真を撮ることしかできませんけど……」
 言いながらポケットから携帯を取り出した。すると、
「あ、俺のと同じ機種だね。ねぇ、これ一時間ほど預かってもいい?」
「どうしてですか?」
「翠葉ちゃんが好きそうな着信音や、その他もろもろお役立ち情報を入れておいてあげる」
「えっ、でも……」
 悪いとは思いつつ、実際自分は機械仕掛けが苦手なこともあり、お願いできればお願いしたいという思いもあり。
「そんなに手間のかかることじゃないから」
 その言葉に携帯を預けてしまったのだ。

「……自業自得すぎる」
 どうして体育の授業が終わったときに気づかなかったんだろう。
 否――気づいたところで図書棟に行っても自分がそこに立ち入れるわけではないのだ。
 そこまで考えてため息をひとつつく。
 どうあっても現況が変わることはない。ならば、蒼兄へのメールは諦めよう。
 とりあえず、二階から一階に下りて、保健室にたどり着けさえすればそれでいい。
 そう思って階段を下り始めると、三階から複数人の声が聞こえ、階段を下りてくる気配がした。
 もしかしたら二年生の授業が終わったのかもしれない。
 ゆっくりと階段を移動し、邪魔にならないよう端に寄る。
 手すりを握りしめ、自分の体を支えている間に一行は通り過ぎた。
 少し静かになりほっとしていると、通り過ぎたうちのひとりがこちらを振り返っていた。
 なんだろう……。
 視界が霞がかっていて、人の顔を判別するのは難しい。
 その人影は徐々に大きくなる。それが示すのはこちらへ向かって歩いてきている、ということ。
「ふらふらしてるけど……」
 声をかけられたと同時、右脇に手を入れられ体を支えられた。
 その声だけに聞き覚えがあった。
「……藤宮先輩、ですか?」
「そうだけど……。具合悪いの?」
「少しばかり」
 この人の前では弱みを見せたくなかった。けれども、それは虚勢にしか見えなかったのだろう。
「これで少しばかりっておかしいだろ? 御園生さんって程度問題も言葉で表現できないわけ?」
 あぁ、やっぱり意地悪だ……。
 でも、今回は私に非がある。とてもじゃないけど、「少しばかり」という状態ではなかった。
「これから保健室に行くところです」
 仕方なく行き先を告げると、
「……それなら保健室まで連れていく」
 次の瞬間には体が宙に浮いていた。
 人とは、足が地についていないと不安になるものなのかもしれない。それ以上に、お姫様抱っこという状況が恥ずかしくてたまらない。
 何よりも、この近距離というか、密着に耐えられそうにない。
 今まで、私の周りにいた異性とはお父さんと蒼兄、それから主治医くらいなのだ。
「あ、あの、大丈夫です。歩けます」
「……無理だろ? 視界も怪しい人間を放っていくほど冷血漢じゃないつもり」
 言われて、今度はしっかりと抱えなおされてしまった。
 悔しいことにその先の記憶はない。



 気がつくと、白い部屋の中で点滴を打たれていた。
 とてもよく見知った部屋。ミントグリーンのカーテンでわかる。
 病院だ……。
 きっと学校から運ばれたのだろう。
 でも……倒れたっけ?
 もう一度目を瞑り、意識が途切れる前のことを思い出す。
 八限はつらいながらになんとか乗り切った。蒼兄に連絡しようとしたら携帯がなくて、最悪保健室にたどり着けさえすればいいと――。
 そこまで思い出せば十分だった。
 私は藤宮先輩に運ばれている途中に意識を失ったのだ。
 思い出したら思い出したでなんとも言えない気分になる。
 人に迷惑をかけた。そして、学校から連絡が入った蒼兄にも心配をかけただろう。
 二人を秤にかけるわけじゃないけれど、やっぱり身内ではない分、藤宮先輩に申し訳ないと思う。
 重かっただろうな……。
 意識がない人の体とは恐ろしく重いということを知っている。まるで、液状化した人間を運んでいる気分と蒼兄が言っていたから。
 今回はどこで間違えたのだろう。
 最初から学校を休むべきだったのだろうか。それとも、八限を受ける前に保健室へ行くべきだったのだろうか。
 どこで間違えちゃったんだろう……。
 熱、何度あるのかな。
 ひどく喉が渇いていて、唇も熱でカサカサになっていた。
 そこから察するに三十八度以上はあるものと推測する。

 病室のドアが静かに開く音がした。
 薄っすらと目を開くと、司書先生の姿が見えた。
「気がついた? 気分はどう?」
 どうして司書先生がいるんだろうと思いながら、「大丈夫です」と答える。
「翠葉ちゃん、大丈夫なわけないでしょう?」
 苦笑いを返された。
「筋肉痛みたいに体が痛くて……少しだけ吐き気がします」
「うん、最初からそう答えればいいんだよ。もう少ししたら蒼樹が来るから」
「……兄は――」
「今、先生と話してるよ」
 それにしても、どうして司書先生がここにいるんだろう。
「どうして? って顔だね。それは僕がここにいることかな?」
 訊かれてコクリと頷いた。
「蒼樹が大学から駆けつけるよりも、僕のほうが早くに動けたから。ただそれだけ」
 理由を聞いて心が重くなる。ここにも迷惑を被った人がいたのだと――自己嫌悪。
 体を起こして謝罪しようとしたら、鋭く制された。
「何度あると思ってるの? 三十八度五分だよ? さっきまでは三十九度近かったんだから」
「まだ寝てなさい」と言われ、仕方なく寝たまま謝罪することにした。
「すみませんでした……。ご迷惑、おかけして……」
 司書先生はベッド脇にある椅子に腰掛けると、私のことを観察するように、じっと見ていた。
「なーんか、他人行儀だよね」
 不服そうな声で言われたけれど、事実他人なわけで……。
「ま、確かに翠葉ちゃんにとっては、僕は数日前に会ったばかりの人でしかないわけで、他人と言えば他人なんだけどさ」
 と、それにしてはとても不満げだ。
「僕はもう何年も前から翠葉ちゃんの話を聞いていて、昨日今日の知り合いとは思えないんだよね。こっちは全然他人と思っていないのに、相手は思い切り他人行儀。一方通行っていうか、片思いみたいな感覚に陥るよ」
 少しおどけた調子で話される。
 蒼兄は何をそんなに私のことを話していたのだろう。そのことを疑問に思っていると、
「蒼樹にするように……っていうのは難しいだろうけれど、もっと甘えてくれていいよ? 頼ってくれていいんだよ?」
 そうは言われてもハードルが高すぎる。
「翠葉ちゃんは迷惑をかけたと思っているのかもしれないけど、僕はそうは思ってないから」
「……先生っていうお仕事だからですか?」
 訊くと、司書先生は笑いだした。
「言い忘れてたけど、僕、図書室の司書教諭の資格も持ってるからあそこにいるけど、所属は学園じゃないんだ。僕の本職は学園内の警備だよ」
「警備員、さん……?」
「いや、警備員というわけではないんだ。学校内のセキュリティシステムの管理って言ったらわかりやすい?」
「あ……はい」
「立場的に先生って呼ばれることもあるけど、正確には先生じゃないし職員でもない。生徒会の顧問っていうのは、体よく押し付けられた感じ。ちゃんともうひとり職員が顧問にいるんだけどね、忙しい人であまり顔を出さないんだ」
 そうなんだ……。
「関わる生徒も基本的には生徒会のみ。けど、蒼樹の妹である翠葉ちゃんや従兄弟、兄弟は別。僕のプライベート関係者と認識してるよ。だから、『先生だから』っていうのは僕に当てはまらない、ラジャ?」
 了解、です……。
 けれど、やっぱりここまでしてもらうのは気が引ける。
 もっと、自分でなんとかできるように対策を立てないと……。
「鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス」
 司書先生はにっこりと最上級の笑みを見せた。
 ふと思う。この場に飛鳥ちゃんがいたら大喜びするんだろうな、って。
 でも、今の言葉の意味は……?
 ――甘えぬなら、甘えさせて見せよう翠葉ちゃん……かな。
 うーん……やっぱり、どう考えてみてもハードルが高いです。