「薬は抜けたかな?」
 顔を覗きこまれて心臓がトクリと音を立てた。
「テラスに蹲ってるのを見たときは心臓が止まるかと思ったよ」
 ……今、心臓が止まりそうなのは私のほうです。
 心の中で呟きながら、平静を装ってはみるものの、全然できていない気がする。
「そうね、血圧も八十ちょっとあるし、血色もいいみたいね」
 栞さんの分析がちょっと恨めしい……。
 血圧が高いのだって、ただ単に秋斗さんが近くにいるからじゃないだろうか、と自己分析を試みたところでなんの役にも立ちはしない。
「じゃ、僕はこれで帰るから。また明日ね」
 笑みを向けられたけれど、その顔を直視することはできなかった。
 今は秋斗さんがどんな表情をしていようと、どんな言葉を口にしようと関係なく、ありとあらゆるものに反応して顔が赤くなってしまいそう。
 自己防衛に、顔を半分ほど隠す勢いでお布団をかぶっていたけれど、どのくらい効果があるだろう?
 でも、明日も会える――。
 雅さんには申し訳ないな、と思うものの、秋斗さんが一緒にいてくれるこの時間が宝物に思えた。
 相変らず心臓は忙しなく動いているけれど、なんだろう……。"好き"という気持ちはとてもあたたかい。
 このドキドキに慣れる気はしないけど、でも嫌ではないかもしれない。
 佐野くんはこんな気持ちで飛鳥ちゃんを見てるんだね。
 ……雅さんも同じなのかな。
 雅さんに会ってから今日で三日が過ぎた。
 常に人と行動しているからなのか、それとも防犯カメラが一役買っているのか、はたまた、ただの取り越し苦労なのか……。
 そのどれかはわからないけれど、とくにアクシデントは起こっていない。
 このまま、何もなく二週間が過ぎるといい――。

 夜九時になるとお母さんから電話があった。
『翠葉、大丈夫? なんだか脈拍がすごいことになっていたけれど……』
 思い出すだけで、すぐにでもバクバクいいだしそう。
 それでも、秋斗さんがいたさっきよりはだいぶ落ち着いている。
「うん、大丈夫」
『あのね、蒼樹の誕生日に午後から休みが取れたの。だから、家族で食事でもって思ってるんだけどどうかしら? たまには外で食べない?』
「うん、楽しみ。でも、二日から全国模試があるから、あまり長時間は外にいられないかも」
『そうね。夕方に藤倉市街で落ち合いましょう。デパートで翠葉のプレゼントも買わなくちゃ。外食先はウィステリアホテルだからデパートからも近いわ』
 そのくらいなら大丈夫だろう。
「じゃ、蒼兄にも話しておくね」
『お願い。じゃ、季節も季節だから無理はしないようにね?』
「はい」
 通話を切って携帯に向かって口にする。
「お母さん……。お母さんもお父さんを見てこんなにドキドキしたことある……?」
 今でもとても仲が良くて一緒に仕事をしているけれど、こんなふうにドキドキしたことがあったのかな?
 いつか訊いてみたい。たくさん時間が取れるときに。

 ふと、"恋愛"の意味はなんだっただろう? と思い立ち、国語辞典を開いた。
「特定の異性に特別の愛情を感じて恋慕うこと。また、男女が互いにそのような感情をもつこと――」
 "愛情"という漢字を目にして動揺する自分をどうにかしたい。
 自分が自分に耐えられなくなりそうだ。
 ……確かに世界は変わるかもしれない。
 けど、キラキラした世界というよりも、ドキドキだらけでとても心臓に悪いような――。
 そんな世界に一変した気がするのは気のせいだろうか。



 薬を減らしたことで体のだるさはかなり軽減された。
 ただ、痛みが少し出てきているのは感じる。
 まだ我慢できるからいいけれど……。
 そうは思っても、我慢しすぎて薬が効かなくなるほうが厄介だ。
 鎮痛剤の服用が続くことで血圧も体温も下がってしまうことを思えば、あまり飲みたいものでもない。けど、この一週間を乗り切るためには仕方がない。
 どうしたって取捨選択をする必要がある――。
「昨日よりは楽?」
 キッチンカウンター越しに栞さんに話しかけられる。
「はい、多少ですけど……。でも、人の手を借りなくても歩けそうです」
「そう、良かったわ。痛みは少しあるみたいね」
「はい。……でも、大丈夫」
 キッチンから出てきた栞さんはお弁当箱をテーブルに置くと、
「この間、桃華ちゃんが作ってきてくれたサンドイッチが美味しかったって言っていたでしょう? だから、同じようなものを作ってみたの。食べられるようなら食べて? それから、いつものスープ」
「ありがとうございます」
 いつもと同じ時間、七時二十分になると、「出れるか?」と蒼兄に訊かれた。
「うん、大丈夫」
「じゃ、行こう」
 ごく自然に、当たり前のように手を差し出された。
 今日はひとりでも歩ける。でも、私はその手を取った。

 栞さんに見送られて車が発進する。
「蒼兄、昨日お母さんから電話があってね、三十日の夕方に藤倉市街で落ち合ってホテルでご飯食べましょう、って。私と蒼兄のお誕生会みたいだよ」
「あ、そんなメールが届いてたな」
「お母さんともお父さんとも一ヶ月近く会ってないから、家族が揃うのは久しぶりだね」
 前回会ったのは五月三日で今日はもう二十七日。
 仕事がますます忙しくなったのか、月に四日帰ってくることも難しくなっていた。
 それでも、連絡だけはこまめに取っている。
 こんなに長く家を空けられるようになったのは、一重に栞さんのおかげ。さらには、このバングルが知らせるバイタルを見て安心できるからなのだろう。
「そうだな。バングルをつけてから、仕事の合間に翠葉の状態がわかるようになったから安心してるんじゃないか?」
 蒼兄も同じように思ったみたい。
「秋斗先輩に感謝だな」
 その一言に反応してしいまう。
 昨夜、お母さんとの電話を切ったあと、ひとつメールが届いていることに気づいた。
 どうやら、電話の最中に受信していたらしい。
 メールを開いてみると秋斗さんからだった。


件名:苺のような君へ
本文:君は僕の笑顔を反則だって言うけれど、
    君のあの顔はもっと反則だと思うよ?
    でも、僕は喜んでいいわけだよね?

    体、お大事に。おやすみ。


 さすがになんて返信していいのかわからなくて、「おやすみなさい」の一言しか返せなかった。
「翠葉、自分でもわかってるんだろうけれど……顔真っ赤」
 蒼兄に言われて、思わず両手で顔を覆ってしまう。
「そんなんじゃ先輩にすぐばれるよ? しかも、あの人のことだから間違いなく調子に乗る」
「……もしかしたらもう気づかれてしまってるのかも……」
「くっ、昨日メールでも届いた?」
「ご名答……」
「でも、良かったんじゃないの? 初恋は実らないっていうけど、翠葉のはもう実ってるも同然だろ?」
「……そう、なのかな……」
「……何悩んでるんだか」
 悩んでいるというか、気持ちを持て余してる感じ……。
 せっかく返事をするのを模試のあとにしてもらったのに、そんなことは関係ないくらいに動揺してばかりの自分をどうにかしたい。
 そもそも、この気持ちと返事は一緒くたにしちゃいけない。
 私は模試が終われば自分のことで手一杯になる。
 恋愛どころじゃなくなる――。