その他にも何かあるだろうと、マスターの言葉を待っていたのだけれど。

いつまで経ってもそれ以上の言葉は出てこず、マスターはただにこにこと微笑んでいた。

「……え、それだけですか?」

「うん? ああ、そうだよ。まあ、出来ればDVDもつけて欲しいかなぁ~。あの橘律花の演奏は鳥肌ものだったからね! 橘奏一郎の指揮も鬼気迫るものがあってねぇ。うん、あれは良かった」

マスターの言う通り、あれは確かに良かった。

ショスタコーヴィチは一昨年、パリ公演で演奏されたものだ。

夫婦競演は珍しく、両親に招待されて拓斗や花音も一緒に観に行った。

ショスタコーヴィチ──『ヴァイオリン協奏曲第一番 イ短調 作品77』。

曲の長さ、内容、オーケストレーションともに大規模で、交響曲に匹敵すると言われている、ショスタコーヴィチの傑作のひとつ。

全楽章合わせて約40分。

鎮痛だが思案的で、沈み込んでいく瞑想的な味わいのある第一楽章。

華やかに、かつ大胆に、目の回るような忙しい展開で超絶技巧が続く第二楽章。

シンプルな表現ながら重厚な雰囲気で粛々と進んでいく第三楽章。

そして、ソリスト、オーケストラ共にすべての力を注ぎ込み、天かける天馬のごとく暴れ回る最終楽章。

ヴァイオリン協奏曲の中では間違いなく最高難易度のひとつであるこの曲は、技巧的にはもちろん、その内容の濃さで奏者の体力と精神力を削ぐ。