ワケあり!

「ひなこか…お前が寝ている間に夏になったぞ」

 揶揄する奇妙な言葉を口にしながら、「それ」が振り返る。

 もう一歩。

 ぴーこ──いや、ひなこが「それ」に近づいたら、食われるのではないかと思うほどの獣的な笑み。

 唇の中に、牙がないことが不思議なほどだ。

「違うわ…」

 ひなこは、「それ」を前にしても怯まない。

 その一歩を、踏み越えた。

「違うの…分かるわよね?」

 まっすぐに、自我のある意思で「それ」をみつめるひなこ。

 祇園祭で見た、あの雲の上を歩くような気配は、もう微塵もなかった。

「ああ…なるほど」

 ククッと。

「それ」は笑った。

 笑みに、火の粉が絡んで消されるほどの低い音。

「なるほど、なるほど…そういうわけか…お前がアレの置き土産か」

 何の。

 何の話をしているのか、この二人は。

 絹は、炎の舞台で繰り広げられる劇を、ただ見せられていた。

「久しいな…会いたかったぞ」

 ひなこに、手を伸ばす。

 愛情はない。

 優しさもない。

 本当に会いたかったなんて、かけらほども思っていない。

 伸ばされる手は──むしりとる手にしか見えなかった。

 ひなこは、その手を見る。

 そして、微笑んだ。

「あなたの手は…取らないわ」

 稲妻が。

 絹の中に、稲妻が落ちた。

 その微笑が、絹の脳髄を激しく揺さぶったのだ。

 あ、あ、あ。

 今ほど、記憶がつながるなと願った時はない。

 ひなこを見る。

 違う。

 そうじゃない。

 そうじゃなくて。

「やっぱりか…残念だな……桜」

 ああああ。

 本当に──亡霊が出た。