しばらくそうしていて落ち着いてきたのか、忍は目を開ける。
「──声、聞こえなくなった」
「何だったの?」
「わからない。こんなこと初めて」
「さっき、店内の音が変になったのは聴いたんだけど」
「音が止まった時でしょう?その時に『たすけて』って聴こえてきたの。それも四季には聴こえなかった?」
「うん」
「変ね…。私、身体は丈夫な方だし、疲れているわけでもないと思うんだけど」
「そうだね。曲が止まったと同時に忍にだけ聴こえる声があるというのも」
「とにかく、ごめんね。心配かけて」
忍は笑顔になる。
「立てる?」
「うん。平気」
「帰ろうか。また何か起こっても困るし」
「何かって?そう何度も起こっても困るんだけど」
「『タイスの瞑想曲』の話なんかしたから、まずかったのかな…。忍が『タイスの瞑想曲』を弾くなら、僕はさしずめタイスに恋するアタナエルだよ」
「え?アタナエルはタイスが好きになるの?いいことじゃない?」
「修道士が恋したらダメじゃない?シスターとかも多分そうだったと思う」
「恋を禁忌にしたら誰が子孫をつくっていくの?それってとても変だと思うわ」
「でもタイスはアタナエルに導かれたお陰で結局信仰に目覚めて聖女になってしまって、病で天に召されてしまうんだよね。それで残されたアタナエルは嘆き悲しむという」
「──何だか悲惨な話ね。シェイクスピアじゃないけど、歌劇って悲惨な話、多くない?」
「そうだね…。現実は幸せな方がいいよね」
楽譜を買って、楽器店を出る。
外は雪が降りはじめていた。
「わ。四季、雪降ってるよ」
「『冬のソナタ』弾こうか?」
「ロマンチックだけど、あのドラマも現実だったらつらいと思う」
「音楽は『タイスの瞑想曲』でも『冬ソナ』でも、物語に関わりなく美しいんだけどね」
「ふふ。そうね」
こんな会話をしている現実がいい、と思う。
生きている今を愛せたら、それがいちばん。
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