イヴァンは「それで良い」と言わんばかりに頷くと、辺りを見渡しながら尋ねてきた。

「実は母を見舞いたくてな、花を持って行きたいと思ってここへ寄ったんだ。俺は花のことはよく分からんから、エレーナが見繕ってくれると助かる」

 ここの花を勝手に取っても良いのだろうかと疑問に思ったが、ここへ来るのは自分や水月ばかりで、昼間の短い時間だけ庭師が植物たちの世話に立ち寄る以外、訪問する人は見たことがない。
 ずっと誰にも見てもらえないよりも、喜んでくれる人のために摘んだほうが草花も喜ぶような気がした。

「はい、イヴァン様。今から花を摘んで束ねますから、少しお待ちになって下さい」

 いずみは奥の植物たちに歩み寄ると、蕾が開きかけた花を何本か摘み、花を引き立たせる濃い緑の葉も採取する。
 そして丸い葉が可愛いツタを切って草花の茎をしっかりと束ねると、余った部分を花に絡めて、より見栄えの良い花束を作り上げた。
 
 いずみが「どうぞ」と差し出すと、イヴァンは感心したように唸った。

「ほう、随分と器用だな……ありがたい。これなら母も喜んでくれる」

 そう言いながらイヴァンは花束を受け取る。黒い服に彩り豊かな花束がよく映えていた。
 手元の花々を見つめてから、彼はいずみへ視線を移した。

「すぐに礼をしたいところだが、あいにく今は何もなくてな。後日改めて礼を――」

 ギィ、と扉が開く音がして、イヴァンは言葉を止める。
 二人が扉へ振り向くと、武官らしき青年が颯爽とした足取りでこちらへ近づいて来た。

 肩で切り揃えた銀髪に、涼やかな目付き。そこから覗く薄氷の瞳は、青年から漂う硬く落ち着いた雰囲気を強調している。
 いずみを一瞥すると、青年は息をついてからイヴァンに視線を向けた。

「剪定バサミを探していて遅くなってしまいました。申し訳ありません、王子」

 ……王子?
 その単語を聞いた瞬間、いずみは目を瞬かせ、息を止める。

(思い出した。水月が「最低限、コイツらの名前は覚えておけ」って教えてくれた中に、イヴァン王子の名前があったわ)

 その名は忘れていなかった。が、この国の住民ではないために馴染みがないことと、ジェラルド以外に王侯貴族と関わることはないだろうという思い込みから、イヴァンが王子であると繋がらなかった。

 いずみが顔を青くしていると、イヴァンは面白くなさそうに青年を睨んだ。

「せっかく正体を隠していたのに……余計なことを言うな、ルカ」

 事情を知らないルカの目が、一瞬きょとんとなる。
 それからいずみとイヴァンを交互に見て、長息を吐き出した。

「無茶を言わないで下さい。この城内にいる人間で王子を知らない人がいるだなんて、思いつきませんよ」

 かなり親しい間柄なのか、王子を相手に遠慮がない。
 傍で見ているだけでハラハラしてしまい、いずみの動悸が早くなる。

 イヴァンは目を据わらせ、恨めしそうな視線をルカに送っていた。

「確かにそうだが……お前は一体何年俺の側にいる? 側近なら察してみせろ」

 半ば呆れた表情を浮かべてルカは「……善処します」と呟くと、いずみを真っ直ぐに見つめる。
 
「ところで王子、そちらの可愛いご婦人は?」

「彼女はエレーナ……トトの孫だそうだ」

 イヴァンの言葉に、ルカのこめかみがピクリと動く。
 しかし、すぐに微笑を浮かべて、いずみへ軽く一礼した。

「初めまして、私はルカと申します。貴女があの花束を作ってくれたのですね? ありがとうございます。私や王子では、あそこまできれいな物は作れませんから助かりました」

 慣れない扱いにいずみは困惑を隠せず、目が泳ぐ。

「い、いえ、お役に立てて光栄です。でも無断で花を切ってしまって……その、申し訳ありません」

 いずみが頭を下げようとした瞬間、イヴァンが軽く肩を叩いてきた。

「俺が頼んだことなんだ、そんなことは気にしなくてもいい。大体、ここの温室は親父が母上のために作らせた物。その母上に花を差し上げるのだから、誰にも文句を言われる筋合いはない」

 どことなく強引なところはジェラルドと重なるが、イヴァンには人間らしい温かみを感じる。強面で萎縮してしまうが、己の立場を偉ぶらない気さくさに親しみが持てた。

 イヴァンといずみを交互に見てから、ルカは軽く咳をした。

「王子、そろそろ移動しないと、王妃様とお会いする約束の時間に遅れてしまいますよ」

「ああ、そうだな。母上は時間に厳しい方だからな、少しでも遅れたら後が怖い」

 薄っすらイヴァンは苦笑を浮かべると、コツ、と靴音を鳴らして歩き始める。
 足を扉に向けつつ上体をひねり、いずみを振り返った。

「じゃあなエレーナ、また近い内に会おう。ルカ、行くぞ」

 ひらひらと手を振るイヴァンに遅れて、ルカも一礼してから踵を返して後を追う。