「エレーナという名は偽名だそうだな。本当の名は何と言うんだ?」
新たな名をつけられてから一度も口にしていない、水月ですら口に出して呼んだことがない、本当の名前。
胸が詰まりそうになりながら、いずみは口を開いた。
「……いずみ、と申します」
「そうか。バルディグでは聞かない、不思議で優しい響きがする名だな。エレーナよりも、その名のほうがお前に似合っていると思うぞ、いずみ」
イヴァンの言葉に、いずみの目が大きく開かれる。
急に目頭が熱くなり、瞬く間に視界がぼやけていく。
涙が溢れて、瞼が少しでも動けば流れてしまう。泣けばイヴァンに無用な心配をかけさせてしまう。
そう頭で分かっていも、目を弧にせずにはいられなかった。
「ありがとうございます、イヴァン様……本当の名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて……今まで気づきませんでした」
何度か指で涙を拭い、どうにか視界をはっきりさせると、虚を突かれたように目を丸くしたイヴァンの顔があった。
いずみと視線が合うと、彼は眼差しを柔らかくして微笑む。
「喜んでもらえて何よりだ。せっかくの機会だ、これから二人きりの時にはその名を呼ばせてもらう。構わんな?」
本当の名前を知ってもらえただけでも嬉しいのに、これからも呼んで頂けるなんて……。
声が詰まってなかなか言葉が話せず、代わりにいずみは何度も頷いて気持ちを伝える。
イヴァンは口元に手を当てると、こちらを興味深そうに見据えた。
「事情があるとはいえ、誕生祝いの件といい名前の件といい、俺が今まで見てきた者たちとはやはり違うな。ここへ来る前は一体どういう生い立ちだったのだ?」
深呼吸をして感極まった胸中を鎮めると、いずみはイヴァンを見返した。
「物心がついた頃から一族の知識を大人たちから学んで、その合間に他の子供たちと近くの森や丘で遊ぶ生活を送っていました。妹のみなもが生まれてからは、いつも一緒で……隠れ里の外へ出たのは数えるほどしかありませんでしたが幸せでした」
「ほう、妹がいるのか。一度見てみたいものだ、きっとお前に似て――」
話の途中、イヴァンはハッとなって言葉を止める。
「……いずみの仲間や身内は、ナウム以外は殺されたのだったな。済まない」
気まずそうに眉間を寄せたイヴァンを見て、いずみは口を開きかける。だが、すぐに思いとどまる。
今この馬車は、御者に変装したキリルが動かしている。もしかすると中の会話を聞いているかもしれない。
一族の生き残りがいると分かれば、放っておかないのは目に見えていた。
いずみは僅かに腰を上げて席に浅く座り直し、イヴァンとの距離を縮めた。
「イヴァン様、少し手の平をお借りしてもいいですか?」
「……? ああ、別に構わないが」
小首を傾げながら、イヴァンが右手を広げて差し出す。
その大きな手を取り、いずみは人差し指で文字を綴っていった。
『実を言うと、私は追手に捕まる前に妹を逃しました。無事なのか、どこにいるかは分かりませんが、きっと生き延びています』
新たな名をつけられてから一度も口にしていない、水月ですら口に出して呼んだことがない、本当の名前。
胸が詰まりそうになりながら、いずみは口を開いた。
「……いずみ、と申します」
「そうか。バルディグでは聞かない、不思議で優しい響きがする名だな。エレーナよりも、その名のほうがお前に似合っていると思うぞ、いずみ」
イヴァンの言葉に、いずみの目が大きく開かれる。
急に目頭が熱くなり、瞬く間に視界がぼやけていく。
涙が溢れて、瞼が少しでも動けば流れてしまう。泣けばイヴァンに無用な心配をかけさせてしまう。
そう頭で分かっていも、目を弧にせずにはいられなかった。
「ありがとうございます、イヴァン様……本当の名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて……今まで気づきませんでした」
何度か指で涙を拭い、どうにか視界をはっきりさせると、虚を突かれたように目を丸くしたイヴァンの顔があった。
いずみと視線が合うと、彼は眼差しを柔らかくして微笑む。
「喜んでもらえて何よりだ。せっかくの機会だ、これから二人きりの時にはその名を呼ばせてもらう。構わんな?」
本当の名前を知ってもらえただけでも嬉しいのに、これからも呼んで頂けるなんて……。
声が詰まってなかなか言葉が話せず、代わりにいずみは何度も頷いて気持ちを伝える。
イヴァンは口元に手を当てると、こちらを興味深そうに見据えた。
「事情があるとはいえ、誕生祝いの件といい名前の件といい、俺が今まで見てきた者たちとはやはり違うな。ここへ来る前は一体どういう生い立ちだったのだ?」
深呼吸をして感極まった胸中を鎮めると、いずみはイヴァンを見返した。
「物心がついた頃から一族の知識を大人たちから学んで、その合間に他の子供たちと近くの森や丘で遊ぶ生活を送っていました。妹のみなもが生まれてからは、いつも一緒で……隠れ里の外へ出たのは数えるほどしかありませんでしたが幸せでした」
「ほう、妹がいるのか。一度見てみたいものだ、きっとお前に似て――」
話の途中、イヴァンはハッとなって言葉を止める。
「……いずみの仲間や身内は、ナウム以外は殺されたのだったな。済まない」
気まずそうに眉間を寄せたイヴァンを見て、いずみは口を開きかける。だが、すぐに思いとどまる。
今この馬車は、御者に変装したキリルが動かしている。もしかすると中の会話を聞いているかもしれない。
一族の生き残りがいると分かれば、放っておかないのは目に見えていた。
いずみは僅かに腰を上げて席に浅く座り直し、イヴァンとの距離を縮めた。
「イヴァン様、少し手の平をお借りしてもいいですか?」
「……? ああ、別に構わないが」
小首を傾げながら、イヴァンが右手を広げて差し出す。
その大きな手を取り、いずみは人差し指で文字を綴っていった。
『実を言うと、私は追手に捕まる前に妹を逃しました。無事なのか、どこにいるかは分かりませんが、きっと生き延びています』


