支度を済ませて家を出る。
昨日は本鍵を使っていたけれど、いつもの癖か、靴箱の上の、うさぎのキーホルダーが付いた鍵を、私は咄嗟に掴んでいた。
玄関のドアを閉めて、鍵を回した瞬間、弾かれた様に、私は鍵からパッと手を離していた。
鍵穴に差し込まれたままブラン、と揺れるうさぎを見つめながら、もうここに「帰ってくる事は無い」夜くんの事を思った。
溜息が出る。
そのまま深く深呼吸をして、私はゆんくりと鍵を抜いた。
何て事は無い。この鍵は、私の鍵なのだから、これが普通の事なのだ。
藤原さんとの待ち合わせは、藤原さんがバイトから上がる午後三時にしてある。
バイト先も喫茶店だからと言って、そこで待つのは気が引けて、少し離れた別の喫茶店に入った。
喫茶店に入って、先に注文していた方が良いのかと迷ったけれど、藤原さんはすぐにやってきた。
「ごめんね、お待たせ。」
「いいえ。今来たところです。お疲れ様でした。」
ありがとう、と藤原さんはいつもの笑顔で微笑みながら、私の向かいに座った。
私の視線は、自然と藤原さんの首元に注がれる。
絆創膏が一枚、貼ってあるだけだった。
「あ…の…。首…、大丈夫でしたか…。」
藤原さんとしっかりと目を合わせる事が出来なくて、私は俯いてしまった。
大丈夫だよ、と言った藤原さんの声は穏やかだった。
「こんな所に絆創膏貼るなんて事無いからさ、どうしたのかって聞かれたけど、虫刺されで掻き過ぎたって言えば、それでおしまい。
まぁ…、弥生ちゃんだけだね。『キスマークなんじゃないの!』って疑っていたのは。」
おどけた様に言ってくれる藤原さんと、美神さんらしい答えがおかしくて、私は少しだけ笑った。
「血は、止まりましたか。」
「月城さん、知ってる?
人間の爪と力だけでは、人の皮膚を突き破ってえぐるなんて、相当の力が必要だよ。
表面で血を流させたって、相当な怪我は負わせられない。
本当に『殺してやる』って強い意思があるのなら、彼はもっと簡単に俺を殺すか、相当な力を使っただろうね。」
藤原さんの声を聞きながら、昨日、首を締められても、簡単には死なないのだな、と思った事を思い出した。
やっぱり人間は、簡単には死なないのだ。
だけど、今の藤原さんの話に従えば、やはり殺し易かったのは、藤原さんよりも、私の方だったのだと思う。
凶器を使うのならまだしも、爪を使って首を切るよりも、締める方が容易いだろう。
それ程までに、夜くんは私との永遠を望んでいたのだ。
と、そんな風に美化してしまう私ももう、どうかしている。
注文したドリンクが運ばれてきて、私達は一旦、話を切った。
藤原さんがジンジャーエール、私はパインジュースを注文した。
店員さんが下がってから、藤原さんが言った。
「明日もバイト、入ってなかったっけ?戻ってくるよね?」
どこか不安そうな表情を浮かべる藤原さんを、どうしてこの人は、こんなに優しくなれるのだろうと思った。
「藤原さん。昨日は本当にすみませんでした。
あんな風に、取り返しのつかない事になるなんて思っていなかった。謝っても許される事ではありません。
だけど彼の分も、どうか謝らせてください。
本当にすみませんでした。」
深々と頭を下げる私に、藤原さんは言った。
「月城さん、顔を上げて。
謝らなきゃいけないのは、君を連れて走れなかった俺の方だよ。
けど、それでも月城さんが俺に謝ってくれるのなら、バイト、絶対に辞めないでね。
それでチャラ!」
顔を上げて見た藤原さんの笑顔は、本当に優しい。
絶対に泣かないと決めていたのに、涙が溢れて止まらなかった。
藤原さんは困った様に笑いながら、ハンカチを差し出してくれた。
ハンカチは、藤原さんとおんなじ、洗剤の匂いがした。
「早く、涼しくなると良いね。」
藤原さんが言って、私は小さく頷いた。
昨日は本鍵を使っていたけれど、いつもの癖か、靴箱の上の、うさぎのキーホルダーが付いた鍵を、私は咄嗟に掴んでいた。
玄関のドアを閉めて、鍵を回した瞬間、弾かれた様に、私は鍵からパッと手を離していた。
鍵穴に差し込まれたままブラン、と揺れるうさぎを見つめながら、もうここに「帰ってくる事は無い」夜くんの事を思った。
溜息が出る。
そのまま深く深呼吸をして、私はゆんくりと鍵を抜いた。
何て事は無い。この鍵は、私の鍵なのだから、これが普通の事なのだ。
藤原さんとの待ち合わせは、藤原さんがバイトから上がる午後三時にしてある。
バイト先も喫茶店だからと言って、そこで待つのは気が引けて、少し離れた別の喫茶店に入った。
喫茶店に入って、先に注文していた方が良いのかと迷ったけれど、藤原さんはすぐにやってきた。
「ごめんね、お待たせ。」
「いいえ。今来たところです。お疲れ様でした。」
ありがとう、と藤原さんはいつもの笑顔で微笑みながら、私の向かいに座った。
私の視線は、自然と藤原さんの首元に注がれる。
絆創膏が一枚、貼ってあるだけだった。
「あ…の…。首…、大丈夫でしたか…。」
藤原さんとしっかりと目を合わせる事が出来なくて、私は俯いてしまった。
大丈夫だよ、と言った藤原さんの声は穏やかだった。
「こんな所に絆創膏貼るなんて事無いからさ、どうしたのかって聞かれたけど、虫刺されで掻き過ぎたって言えば、それでおしまい。
まぁ…、弥生ちゃんだけだね。『キスマークなんじゃないの!』って疑っていたのは。」
おどけた様に言ってくれる藤原さんと、美神さんらしい答えがおかしくて、私は少しだけ笑った。
「血は、止まりましたか。」
「月城さん、知ってる?
人間の爪と力だけでは、人の皮膚を突き破ってえぐるなんて、相当の力が必要だよ。
表面で血を流させたって、相当な怪我は負わせられない。
本当に『殺してやる』って強い意思があるのなら、彼はもっと簡単に俺を殺すか、相当な力を使っただろうね。」
藤原さんの声を聞きながら、昨日、首を締められても、簡単には死なないのだな、と思った事を思い出した。
やっぱり人間は、簡単には死なないのだ。
だけど、今の藤原さんの話に従えば、やはり殺し易かったのは、藤原さんよりも、私の方だったのだと思う。
凶器を使うのならまだしも、爪を使って首を切るよりも、締める方が容易いだろう。
それ程までに、夜くんは私との永遠を望んでいたのだ。
と、そんな風に美化してしまう私ももう、どうかしている。
注文したドリンクが運ばれてきて、私達は一旦、話を切った。
藤原さんがジンジャーエール、私はパインジュースを注文した。
店員さんが下がってから、藤原さんが言った。
「明日もバイト、入ってなかったっけ?戻ってくるよね?」
どこか不安そうな表情を浮かべる藤原さんを、どうしてこの人は、こんなに優しくなれるのだろうと思った。
「藤原さん。昨日は本当にすみませんでした。
あんな風に、取り返しのつかない事になるなんて思っていなかった。謝っても許される事ではありません。
だけど彼の分も、どうか謝らせてください。
本当にすみませんでした。」
深々と頭を下げる私に、藤原さんは言った。
「月城さん、顔を上げて。
謝らなきゃいけないのは、君を連れて走れなかった俺の方だよ。
けど、それでも月城さんが俺に謝ってくれるのなら、バイト、絶対に辞めないでね。
それでチャラ!」
顔を上げて見た藤原さんの笑顔は、本当に優しい。
絶対に泣かないと決めていたのに、涙が溢れて止まらなかった。
藤原さんは困った様に笑いながら、ハンカチを差し出してくれた。
ハンカチは、藤原さんとおんなじ、洗剤の匂いがした。
「早く、涼しくなると良いね。」
藤原さんが言って、私は小さく頷いた。



