桜うらうら


 その晩、私は目を覚まして、隣にいるはずの姿がないことに気づきました。厠に立っただけかと思いこむには、あまりにも胸騒ぎが強すぎたのです。

 敷布団にそっと手を触れてみれば、夜の空気に負けず劣らず冷たくなっていました。辺りを見渡してみましたが、旦那さまの気配すら感じません。しんと冷たい空気が漂い、障子からうすく入り込む月明かりがやけに不吉に感じました。私は、今にも駆けだしてしまいそうな心臓な音を聞きながら、しばらく布団の上でひとり座っていたのです。ですが、旦那さまの姿はいっこうに現れません。それどころか、もう二度とお姿を見ることができないのではと、不安と恐怖に立ち上がりました。

 廊下を出て、炊事場に向かって足を進めます。喉の渇きを覚えて、水を飲みに出たとも考えたのです。けれども、私の足は炊事場に向かう途中、庭の見える縁側――昼間、旦那さまが座っていた場所が視界に入り、足を止めていました。


 月の光が強い夜。

 桜の花びらが、ゆるやかな風に揺られて、ひらひらと地面に落ちます。なぜか、その一枚一枚が、桜の涙に見えたのです。ぼんやりと光り輝くその明かりは、月の明るさではありません。あのごつごつした幹も、まだ落ちていない桜の花も、全てがぼんやりと光っているのです。その木の真下に、旦那さまはいらっしゃいました。

「さくらさん」

 旦那さまは、振り返らず静かに私の名を呼びました。桜の花を見上げながら、布団に入ったときと同じ姿、夜着のままでした。

「わたしはさくらさんに、いくつも嘘をつきました」