「発症……していないはずなんだが……」

 苦笑いを浮かべ、情けないな、と呆れる言葉を発する。そんな自分が許せないのか、両手を勢いよく壁にぶつけた。ヒビが入るほどの衝撃。思わず、体が強張ってしまう。
 無言に見つめ合い、ぴんと糸が張ったような緊張感が、私たちを包んでいく。



「――――アンタは退場ね」



 軽やかな声が、重い雰囲気を打ち破る。
 風を感じたと思えば、目の前に見えたのは背中で、

「自分でもわかるだろう? アンタは今、美咲ちゃんといられない」

 現れたのは雅さん。私と叶夜君を引き離すと、叶夜君に詰め寄った。

「今のアンタじゃ護れないし、手にかける危険だってある」

「っ! そんなこと……」

「否定してもダメ。オレにはさ、そーいうのがわかるんだよ。自分が発症してるからかな。そいつがもうすぐ同じになる、ってね。さっさと帰って薬飲むなり、手を打て。もっとも、アンタが感染したらしたで、その時はオレが始末してやるから、安心しな」

 どこまで本気なのか。叶夜君を見る雅さんの表情は、冗談に見えなかった。

「……俺でこの状態なんだ。お前なら、俺以上に危険だろうが」

「その必要はないさ。ちゃんと飲んでるからね。――少なくとも、今のアンタよりは安全」

 だから帰れ、と言う雅さんに、叶夜君は無言になってしまう。

「み、雅さん……そこまで言わなくても」

 おそるおそる言えば、それじゃ甘いと注意されてしまった。

「初めて発症するとね、手当り次第襲うんだ。女は〝男〟を。男は〝女〟を。――つまり、ここでアイツが発症でもしようものなら確実に美咲ちゃんが襲われるし、学校のみんなも、襲われちゃうかもね」

 それでも止める? と聞かれ、返す言葉がなかった。

「とりあえず――美咲ちゃん。悪いけど、中で待ってて」

 背中を押され、ドアの向こうへと連れて行かれる。

「すぐに済むからね」

「あ、あのう!……ケンカとか、しないですよね?」

 戻ろうとする雅さんの腕を掴み、不安を口にする。それに雅さんはやわらかな笑みを見せ、大丈夫だからと言ってくれる。そしてそっと手を払うと、ドアの向こうへ行ってしまった。

 *****



「――まだ帰らないわけ?」



 屋上に二人だけになるやいなや、雅はあかるさまに、面倒臭いという雰囲気を放つ。

「お前の話が本当かどうかもわらない。それに――感染したお前のそばに、彼女を置いておけるか」

 そしてそれは、叶夜も同じだった。王華と雑華というだけじゃない。個人的に、雅のやり方が気にくわなかった。

「オレの話がウソかホントかなんて、別にどーでもいいだろう? あの匂いに耐えれないようなら、現時点でダメなんだよ。――折角だ。一つ、イイこと教えてやるよ。美咲ちゃんのあの香りは、しばらく続くどころか強まる。となれば、アンタが苦しむ確率は上がるだろう?」

「……なぜ、そんなことを知ってる」

 睨む叶夜に、雅はふっと口元を緩め、

「ダ~メ。これ以上は教えてやんない」

 不敵な笑みを浮かべた。
 苛立つ叶夜。言い返してやろうとした時、懐に入れたスマホが震え、叶夜の行動を制した。

「それ、リヒトさんからだろう?」

 画面を見れば、そこには【上条理人】の文字が確かに出ていた。

「さっき、連絡しといたから。ほら、早く出ろよ」

 小さく舌打ちすると、叶夜は一度深呼吸をしてから携帯を開いた。

「――どうかしましたか?」

『ミヤビから話しを聞きました。アナタは今すぐ私の元へ来て下さい』

「っ!? あなたまでそんなことを……」

『よく聞きなさい。日向さんは今、石碑に近づいた後です。それ故に力が活性化しててもおかしくない。今の日向さんの匂いに耐えられないなら、アナタは危険です。ミヤビはしばらく発症する恐れはありません。ですからすぐに、アナタはこちらに来て下さい』

「…………わかりました」

 上条にこうも言われては、叶夜もさすがに、これ以上粘ることは出来なかった。
 スマホを閉じると、叶夜は雅を睨みつける。

「オレを睨んでもしょうがないだろう?――じゃ、オレは美咲ちゃんのとこ行くから」

 ははっと笑いながら、雅はドアの向こうへ歩いて行った。
 一人残された叶夜。握りしめた両手からは、微かに、血が滲み出ていた。