私は、自らの素直で本能的な欲求に突き動かされ、姫君の元へと歩を進めた。
 先程よりも控えめな靴音と、スカートのプリーツが擦れ合う衣擦れの音と共に、私は少しずつ、その静寂の姫君が支配する空間に忍び入った。

 2分00秒

 姫君は、ただただ静寂の中にいた。
私が後数歩でピアノの横に立てる位置まで来ても、構うことなく自らの内面に広がっているのであろう、無音空間に浸っていた。
既に私の存在には気付いているだろうと思う。
今この空間に流れる音は、互いの僅かな呼吸音だけ。
私は彼女の生命の音を感じながら、その月光に照らされた横顔と、近付くことで良く見えるようになった、その細くてしなやかな色素の薄い手の甲と、制服のスカートの裾から覗く、こちらもまた細さと色の白さを月光によって強調された、ふくらはぎの辺りを交互に見つめ続けた。

 4分33秒

 どれだけの時間をそうしていたのだろう。
永遠に続くように感じられたその至福の時間にも、終わりの時は訪れる。
姫君は瞼を閉じたまま、鍵盤を再びの暗闇に戻すと、こちらを向いて瞼を開いた。
「どうでしたか?」
 笑顔で彼女は私にそう尋ねた。初めて見る彼女の瞳の色は、どこまでも深い、静けさを湛えた碧色だった。
「とても、素敵でした」
 私は素直にそう答えてしまった。何か演奏を聴いた訳でもないのに。
 私は間違えた、と思ったものの。
「そうですね、素敵でした。月の音と、私の音と、そして貴女の音。今日はとても良い演奏が出来ました」
 と、笑顔のままで彼女が言ったので、私の返答は間違っていなかったようだ。
「今の演奏ではピアノは弾いてなかったみたいですけど…どういう曲ですか?」
 私は一番疑問に感じたことを素直に聞いてみた。
「今の曲は『4分33秒』ジョン・ケージ作曲です。楽譜は無音。この空間に響いた全ての音、この空間全てがこの曲の演奏なんです」
 そんな曲もあるんだな、と私は思った。そして、この人になんて似合っている曲だろうと思った。
この演奏をしている時の、この人の全て、この人を取り巻く全てが音楽になっている。
「私は、音無月乃。音が無いって書いて、月に乃木大将の乃。見た目はこんなでハーフだけど日本生まれの日本育ち。貴女のお名前、聞かせて頂いても良いかしら?」
 彼女の自己紹介を聞き、私は納得する。