「それでも忍が僕を選んでくれたのは何故?」
忍がふわりと微笑んだ。
「わからない。ピアノの前にいて弾けない四季を見ていたから?」
9月。2学期に入ってしばらくしてからのことだった。
思えば、あれが初めて言葉を交わした日だった。
「ソロの練習しようと思って器楽室に向かったら、尋常じゃないピアノが聴こえてくるから…。誰?って思って。見たら、由貴に似ているけど由貴とは違う男子が弾いていて。『熱情』の冒頭なんかを見事に弾くから、それだけで何事?って思ったのよ。でもその子、最後まで弾けなくて…途中で止めてしまって。どうしたんだろう、ってそれで声をかけたのよ」
四季もその時のことを思い出したのか、遠くに目をやる。
「あの時、どうしても身体がついて行かなくて。悔しかった。以前は弾けたのにってショックも大きかった。──忍が声をかけてくれていて良かった。本当に自棄になりそうだった」
ありがとう、と四季の口から言葉がこぼれた。
「忍は…歌やヴァイオリンで思うように歌えなかったり弾けなかったりして、絶望を感じたことある?」
「あるわ。歌えば歌うほど、弾けば弾くほど、壁が大きくなっていくようにも感じた。身体がついて行かなくて、どうしてって思ったこともある。でも──その壁の大きさは、私がそれだけ音楽を必要としているということだと思った」
「……」
「四季もそうでしょう?厳然と壁が立ちはだかっているのにピアノを弾いていたのは、ピアノを愛していたからでしょう?」
「うん…。そうだ。そうだと思う」
「私も四季に声をかけて良かったと思った。私の言葉なんかで『ほっとした』って言ってもらえて、私の方が逆に『ほっとした』って言いたかった。この人も私と同じように音楽を好きでいてくれるんだ、ありがとう、って」


