ピアノを弾くのに最もいい時間は朝だ。
音を聴く感性もクリアになっているし、身体が音楽に素直について行くからだ。
「バッハから弾いていい?」
由貴が訊くと四季は「うん」と答えて、提案をしてきた。
「最初はふたりで弾く。その後、僕が右、由貴が左。それから、僕が左、由貴が右。合わせてみる?」
息が合ってなければ、難しい弾き方ではある。
「そうだね。普段からそういう練習していれば合わせやすいかも」
由貴は答えてピアノの前に座った。
「由貴、先に2小節分弾いて。由貴のテンポに合わせる」
「ありがとう」
由貴は深呼吸すると、鍵盤に指を置いた。
平均律クラヴィーアの最初の曲が紡がれ始める。3小節目から四季のピアノが由貴のピアノに合わせて響き出した。
弾きながら、少しずつある音のズレ。
それでもクラヴィーアの1番は最後の3小節を除く小節がすべて同じリズムで繰り返される。
息を合わせる曲としてはピッタリの曲だった。
ほどなくしてふたりのピアノが見事に合い始める。
ただ演奏される音楽を聴いている時の心地良さとはまた違ったものがある。
自分が弾いている音を相手が聴いていて、寸分の狂いもなく同じ音で合わせてくれる──くもりのない鏡のようだ。
音楽が快いのは、反復や鏡うつしのようになっても、それは純粋に芸術で、人の言葉のようにいやみな感情は含まれることはないからだろう。
生きていると他人の何気ない言葉が気になったり、もしかしたら自分のことではないかと思ったりして、心が疲れてしまうことがあるが、ピアノにはそういう雑然としたものから何処か切り離された世界がある。
心が癒される。


