あえて『名が無い』とは言わず、『名乗りたい名が無い』という言い方で私を守りながら、彼はそう言った。


「おぼろ…」


その儚くも美しい響きの名に、心が酔う。


彼は頷き、嫌でないのならと添えた。

嫌…?

嫌とは、何だろう。

どういう意味だろう。

ぼんやりした頭は、与えられた名で満たされてほとんど機能できなかった。

『朧』。

彼のつけた、私の『名』。

彼の選んだ、私の『名』。


私、の、『名』。


「………っ」


胸が詰まった。

痛くて、苦しくて、どうしようもないほどに詰まった。

こんなに痛いのに、微笑みが漏れた。

微笑む以外、考えられなかった。

ああ、私は今、『嬉しい』のだ。

そう自覚する。


『名』を与えられて『嬉しい』のだ。

『幸福』なのだ。


その感情に翻弄されて言葉が出なかった。


…誰にも呼ばれなかった。

名を。

誰も私を呼ばなかった。

名で。

だから必要なかった。

名など。

だから求めたこともなかった。

望んだこともなかった。

名というものを。


私という
『個人』の名称というものを。


でも。


今からは呼ばれる。

呼ばれる。

…呼ぶ。

彼が
…呼ぶ。


『朧』と。


「……はい」


なんの付属でもなく。
なんの対でもない。

私の名。


『朧』。


…私の名は……『朧』。



「………はい」



私の名は




『朧』。