月を見に行こう。そう言ったのは坂井からだった。
 その言葉を聞いたとき、始めは何を言っているのか意味がわからなかった。
 絶対に何があっても自分から物事を切り出さない坂井が、どうしてそんなことを言ったのかは今でもわからない。
 けれど結果的に、行くと決めたのは美緒の方だった。
 そう、最終的には美緒が自分で決めた。その時点でゲームのイニシアチブを一瞬だけ取り戻したかのように感じた。
 ただ坂井の言葉に動揺を隠すことが出来ず、それをしっかり読まれてしまったことに対して自分の甘さを痛感していた。
 ゲームを切り出してから、坂井は美緒を生徒ではなく、ひとりの大人として扱った。帰りが少し遅くなっても大丈夫かとか、家のことを心配する言葉などかけてくれたことがない。
 それはかえって美緒にはありがたかった。
 坂井と対等に渡り合えることが何よりも美緒の望みだったし、それこそこのゲームの無言のルールだった。
 しかし、そのつもりで渡り合っていたつもりの自分が、坂井のたった一言で崩れかけたことがはがゆく思えた。
 美緒は以前思った綱渡りのことを思い出していた。
 バランスが……少し崩れたような気がした。
 一所懸命元の状態に戻そうとしても、一度崩したバランスは、最初の状態には決して戻りきることはないだろう。
 けれど、そんなに一所懸命にならなくて綱渡りはそんなに永くない。
 もうすぐ終わるのだ。
 そう、ほんのあと数歩で……。